ケンヤム

ラブホテルのケンヤムのレビュー・感想・評価

ラブホテル(1985年製作の映画)
4.5
「真実の愛はトラウマの共有から始まる」ということをなぜか最近考え始めた。
そんな時に、この映画を観たことに何か運命的なものを感じる。


村木と名美もトラウマの共有によって、真実の愛にたどり着いたように私には見えた。
やはり、この映画はロマンポルノであるから、その過程はセックスを通して描かれるべきだろうし、描かれていた。


乱暴なセックスからこの映画は、始まる。
私たちは常に自己を確固たるものとして、確立したがる。
自己を確立させる時、私たちは暴力を欲するのだと思う。
暴力が起こる場所には、確固たる自己が確立する。
なぜなら、その場には「責める側」と「責められる側」という二元的な役割がお互いに発生するからだ。
自己を確立させることを欲する人間は常に、役割を与えられる場所を求めている。
それがどんなに痛みを伴うものであろうと、嫌悪感を伴うものであろうと、自己認識がなんらかの影響により薄弱になった人間は、それを求めるのだ。
村木は「責める側」として、名美は「責められる側」としてそこで自己を確立しているという快感に酔っている。
その状況に狂気を感じた村木は、逃げ出してしまう。


そして、2年後。
名美は、愛すべき不倫相手に奉仕するようなセックスをしている。
2年前のトラウマ(自身がソープ嬢であったという過去)を取り払うかのように、男(権力者)に奉仕するセックスををする。
「男に奉仕するOL」という世間的な女性像を必死に演じているのだ。


村木は離婚した女と、殺伐としたセックスをしている。
そこには惰性しかない。


名美は不倫を暴露された後、村木に暴力を求める。
「男に奉仕するOL」という自己を確立できなくなった名美がすがることのできる自己は、2年前のラブホテルでの村木との暴力的な夜しかない。
しかし、村木はそれを拒否する。
2年前の夜、暴力から逃げ出した時と同じようにそれを拒否する。


村木はその時、真に名美の過去と向き合う覚悟をしたのだと思う。
同時に自身の過去とも向き合う覚悟をした。
名美と「トラウマの共有」をすることを決意したのだ。


名美は村木と「トラウマの共有」を果たした。
だから、最後のセックスでは、名美は暴力を完全に捨て去ることができた。


村木はその後姿を消すが、それは「トラウマの共有」を果たしたからこそなのだと思う。
名美は、2年前のあの過去がある限り村木に暴力を求め続けるだろう。
村木はそれを見越して、名美のために消えたのだ。
私には、この映画の物語の結末はハッピーエンドに見えた。


名美は最後恋敵とすれ違う。
恋敵は名美を羨ましそうに見上げる。
そのあと桜吹雪が舞い、子供達が階段を駆け上がる。
名美が村木との関わりを通して真実の愛を見つけたことを、祝っているように見える。
なんとも切ないラストだった。


ロマンポルノという形をとりながら、決して女性を性の消費物として捉えず、あくまでセックスを人間のごく自然な愛情表現として捉える。
その表現方法自体が、女性を搾取する世の中に生きる女性たちへのエールとなっている。


「女性よ!搾取されるな!」
「男性よ!搾取するな!」


男女平等が叫ばれる今だからこそ、私たちは日活ロマンポルノの名作を観なおさなければいけないのかもしれない。
ケンヤム

ケンヤム