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チョコレートドーナツのMMMのレビュー・感想・評価

チョコレートドーナツ(2012年製作の映画)
4.3
「正しさとは、何なのか。」

結末があまりにも、、、悲しくて
、落胆してしまった。

この世には、多くの命が生きている。
とりわけ、人間という生きものは、何のために生きるかを与えられずに生まれてくる。

生物学的にいうならば、人の生きる主目的は、子孫繁栄だろう。
しかし、私たち人間には、心がある。
その「心をどうやって満たし、安寧を得て死ぬか」?
これが、私たち人類の永遠のテーマではないだろうか。
その心がたどる道筋は、今や何十億と存在している。
その心がたどる道の数だけの正しさがある。
好きか嫌いかはあれど、その道筋に、間違いはないのではないだろうか。
間違いと言える人がいるのだろうか。
そう思うからこそ、私は人類が多様性の中で生きていることを忘れてはならないと考えている。

私のいう多様性を認めるとは、自己の正しさを認めてもらうことと同じくらい、相手の正しさを認めることに関心を持つことだ。
そして、相互に承認しあい、共存すること。
異性愛、同性愛、無性愛、障害、健常、、、etc.
どれも間違ってなどいない。
誰にも間違いとして、裁きを下すことなど、本来はできないはずだ。
けれども、私たちが多様性の中に生きていることを忘れ、人が人を犠牲にして、自らの心が必要としていることだけ求めたとき、争いが起こりうる。

この映画は、まさにそんなシチュエーションだ。
ゲイのカップルと同性愛を〝異常〟だとみなす人々。
互いの正しさがぶつかり合う。
こんな時、私たちが取ることのできる最善の方法は、互いの必要としていることに耳を傾け、理解するように努め、相手に共感し、互いが納得できる最適な着地点を見つけ合うことだと思う。

裁判という空間で、評価し、比較し、分析し、批判し、、、といったやり方で、多様性を認めることを忘れて、主人公たちに攻撃してきた人々を私は好きになれなかった。
そうした暴力的なコミュニケーションのもとでは、感情が沸き立ち、本当に自分の心が必要としていることが見えなくなり、相手に伝えることも、相手の必要としていることに寄り添うこともできなくなってしまうからだ。

今回の審理の場での目的は、マルコにとって、最善の選択をすることであった。
どんな生にも間違いはないから、私は審理の目的から外れた不幸な結果を招いた人々を責めるつもりはない。
彼らは彼らの正しさに従い行動したのだから。
けれども、シチュエーションによって、その時の目的によって、もっとも合理的で最善の選択をすることはできたと思う。
偏見から這い出て、多様性の中に生きていることを思い出して。

私にとっては、自戒となり、力をくれた映画でした。
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