Jeffrey

太陽の少年のJeffreyのレビュー・感想・評価

太陽の少年(1994年製作の映画)
3.8
「太陽の少年」

〜最初に一言、文化大革命の真っ只中を当時生きてきた被害者目線ではなく、さらに下の被害者層(子供たち)にフォーカスしたチアン・ウェンのデビュー作にして傑作である。数多くあるドラックと過激な性描写と騒々しい音楽と冷たい目線で描かれた昨今の青春映画とはー線を画しており、夢か幻想か。自由な時間の流れで捉えられていく北京を舞台にした歴史的過去が描かれており、第五世代の監督とは打って変わったアプローチをした九〇年代の傑作中国映画である〜

本作は役者でもあるチアン・ウェンが監督、脚本を務めた一九九四年の中国、香港合作映画で、原作である王朔の"動物凶猛"が大好き過ぎて、それまで張芸謀作品の役者から初監督を飾った記念すべき一作目で、この度VHSを購入して初見したノスタルジー映画が好きな個人的には堪らないものがあった。一九七〇年代初頭の文化大革命下の北京を舞台に少年のひと夏の恋を描いた青春映画かつ少年たちの瑞々しさが凝縮されたノスタルジックな原風景な映像描写は素晴らしいのである。本作は九四年ベネチア国際映画祭で主演男優賞受賞し、シンガポール国際映画祭でも同様に受賞し、九五年米タイムズ誌年間ベストー選出、九六年金馬賞最優秀作品賞、監督生、脚本賞、主演男優賞、撮影賞、録音賞見事に受賞した作品である。

まずこれが処女作であると言うこと、少年が官能的に映し出される映画であること、そして男女の官能的な美しさに溢れたシークエンスが多く繰り広げられる映画であること、
ヒッチコックやデ・パルマからリンチに至るまで、多くの優れた映画作家たちを魅了した"覗き"のモチーフがこの作品にもあると言うこと、スコセッシのオマージュが炸裂していること、それはロバート・デ・ニーロ主演にした「タクシー・ドライバー」「レイジング・ブル」のオープニングを飾った間奏曲や不良少年たちの抗争シーンである。初めてヒロインのポートレートを発見するシークエンスの官能美の極致がたまらないこと、マスカーニのオペラ"カヴァレリア・ルスティカーナ"の甘美の間奏曲に彩られた映画であることを最初に言いたい。

そもそも文化大革命は毛沢東により一九九六年五月に発動され、七六年の毛沢東の死まで続いたため、一般に十年の文革称される。これに対しエミグラント文学者のチョン・イーは、強い留保をつけている(当時の朝日新聞で中国の地の底でと言うタイトルで話されている)。狂乱の紅衛兵運動や労働者蜂起の後に訪れた、長いブレーキのきかぬの慣性運動の時代には、大都市の紅衛兵とその後輩の中学、高校卒業生のうち約一七〇〇万人が農村地帯へと下放(この下放はチャン・カイコーの「子供たちの王様」のレビューで詳しく書いているので参考までに)。された(党幹部、学生が農村や工場に入り、農民、労働者への奉仕の精神を養うための運動である)。一七〇〇万と言う数は文革十年間の都市部中学、高校卒業生の半数に相当するらしく、年に残った若者も多くは息を潜めて暮らせねばならんなかったそうだ。

文革初期に迫害された数千万市民の免罪が晴らされるのも、文革終了後のことであって、こんな文革後後期と言う出口無しの時代を、作者と同意世代にして同じくエミグラント文学者となるペイタオは、狂気、混乱、理性のかけらもない世紀、信仰を失った世紀と語っていたそうだ。確か東京大学文学教授の藤井省三氏が言っていたことなのだが、この映画はもう一つの失われた文革期青春物語と言える立ち位置にある映画だとの事だ。チアン・ウェン監督はもともと役者であることを先ほど説明したが、彼が俳優として出演している「黒い雪の年」と言う映画があるのだが、この映画がどうしてもみたくてずっと探しているのだが、そもそもメディア化されておらず見ることができない。今年の初めぐらいに紹介した「香魂女-湖に生きる」でベルリン金熊賞受賞したシェ・フェイ監督の作品で、「香魂女」のVHSは今年やっと見つけて購入して鑑賞してるんだが、「黒い雪の年」が未だに見れない。


さて、物語は七〇年代の北京。忘れがたい激動の時代。家族との別れを惜しむ軍人たちの間をすり抜けて、軍用機に乗り込もうとする人民解放軍幹部の父に駆け寄るシャオチュン。見るからに白腕そうな七、八歳の子供だ。学校の帰り道、幼なじみの友達とカバンを投げ上げて遊ぶシャオチュンも今は十六歳。いつも軍服を着て、自転車で群れをなし胡同(フートン)を走り回る。街には大人たちや下放してしまった高校生、大学生の姿はなく、当時の北京は少年たちの天下だった。近頃の彼は特製の手作りの鍵で両親の秘密の引き出しを開けてみるのが、大いなる楽しみだ。小刀を弄んだり、父親の勲章を身に付けたり、机の中に隠されていたコンドームを膨らませ風船のように飛ばしたりしてーつの時間を満喫した。

合鍵作りの趣味が嵩じて、他人の家に忍び込む彼。何を盗むでもない、人気のない家で昼寝やつまみ食いをしたり、主人のことを想像するのが楽しみなのだ。ある日入ったアパートのー室で、飾ってあった少女の写真に一目で恋をしてしまう。その美少女が、実は仲間たちの噂のミーランだと分かったのは何日間との事だった。三日目にミーランの家に忍び込み写真を眺めていた時、突然彼女が帰ってきた。慌ててベッドの下に隠れるシャオチュン。ベッドの下からは小さな鍵を結えた彼女の足首、ふくよかな体、歩く姿は見えたが、ただ顔だけは見えなかった。そしてミーランは着替えを済ませ、またそそくさと出て行った。仲間のヒツジが敵対するグループにやられた。シャオチュン達の周りでいつもウロウロしている、少し頭の足りないクルクルがいじめられるのを、かばったためだ。

仕返しとばかりリーダー格のイクーの指示で殴り込み、シャオチュンはレンガで敵を殴りつけてしまう。二つのグループはついに橋の下で果たし合いをすることになった…。シャオチュンがあてどなく街を徘徊していたある日、ついにあの鍵をつけた足の主が現れた。勇気をもって後ろ姿に声をかける。ゆっくりと振り向いたその顔は、サングラスをかけている美しく輝くあの美少女だった。彼はミーランの虜になった。時間があれば彼女を訪れて一時を共にした。話をするのが精一杯で、手も握れないシャオチュン。シャオチュンは、恋人気取りで仲間に彼女を紹介した。彼女はすぐに仲間のアイドルになった。皆で党の幹部たちの参考映画界に忍び込んだり、夜は屋根の上で"モスクワ郊外の夕べ"を歌ったりました。

降り注ぐ太陽の下、真っ赤な水着のプールサイドの彼女はやけに目立った。そこには、以前彼女の恋人で、彼女のために片方の目を失ったピャオズとのその仲間もいた。彼女に絡むピャオズを、有無を言わせずやり込めるイクー。ミーランはそれ以来、兄貴分のイクーの女となった。それからのシャオチュンはミーランに対して、ことごとく不貞腐れた態度をとるようになる。自分のことを気に求めない彼女を恋人と思い続け、ある日思い余って家に押し掛け彼女をベッドに押し倒すシャオチュン。そしてまもなく二人は別れの時を迎えた。真っ青なプールに飛び込むシャオチュン。自ら上がろうとする彼を、仲間たちが蹴り飛ばしては沈める。力なく水面に浮かんでいるしかない彼は、絶望的にギラギラと青い空を眺める。永遠とも思える夏の時間が過ぎてゆく…とがっつり説明するとこんな感じで、前に紹介した何平監督の「哀恋花火」の主演に抜擢されたニン・チンがミーラン役で出ていて驚いた。

それにしても中国が文化大革命であった時、日本では大学闘争と言うものがあって、確か毛沢東の造反有理と言う言葉が大学闘争のひとつのスローガンに使われていたほどシンパシーがあったと思われる。この映画を見ていくと、被害者であった人物をとらえる(張芸謀などの映画にみられる)傾向があるが、この作品はさらにもっと下の世代(子供)を捉えていて新鮮である。中国の文革と同時期に日本で起こった学生運動の目的と言うのは、やはりベトナム戦争に対する反戦運動と言う要素に加え、大学改革と言う目標、ベトナム戦争に加担している企業に対しての打破、さらに政治的なことより、哲学的なことで、大勢の中に組み入れられていく自分自身を否定したい、何か新しい自分に作り替えたいと言う、自己変革的な要素が最も根底にあった時代である。

六十年代後半から七十年代にかけて、世界各地で同じような動きが起きたんだなと言うこともわかる。日本に置いておきた学生運動では、日本共産党との関係は批判的なもので、新左翼(ニューレスト)と呼ばれる共産党に批判的なな、新しい左翼集団が登場したのもこの時代だろう。共産党を否定する形で生まれてきた集団である。歴史的な話は置いといて、本作は非常に幻想的な映画でもある。しかし本当か嘘かよくわからないのだ。なぜならナレーションが記憶違いかもしれない、半ばおふざけのようなシチュエーションを映像で見せたりするからだ。少年の夢のような現実を描いているのか、はたまた幻想を見ているのか、色々と不思議な映画である。まるで主人公が夢の断片を拾い集めたかのような物語である。

ただこの映画に出てくるほとんどの大人は子供たちに無関心であるがために、北京を舞台にしているにもかかわらず、まるで別の宇宙を見ているかのような子供たちだけの王国が舞台に見えてくるのだ。この映画は少なくても政治的な場面もあるため、大林宣彦監督のようなノスタルジーな作品とまでは言えないが、どこかしら社会状況をバックグラウンドに、少年たちの無邪気で官能的な物語が描かれているなと感じた。ここから映画の印象的だったところを紹介していきたいと思う。冒頭の毛沢東の像と人民軍の歌といい、モノローグといい当時の北京の街並みといい、学校の教室の先生のご機嫌ななめっぷりといい、生徒たちの小馬鹿にした表情といい、オープニングから完成度の高い中国映画と思わさせられる出だしである。これが元役者で上がりで監督したレベルとは思えないほどだ。

この監督きっとヌーヴェルヴァーグなど色々と見てるだろうなと思う。純粋に映画好きな人間の作品である。あの候孝賢の田舎を彷仏させるような子供たちの戯れの描写を見ると、なぜか泣けてくる。それと監督は違うが、「心の香」のときの自然光の捉え方もすごく印象的だったため、この作品にもその映画のワンシーンのような自然光をとらえた扉の逆光のシーンがあるのだがとても印象的だ。それと、ミーランが自宅へ帰ってきて、とっさにベッドの下に隠れる少年の目線から写し出される僅か三十センチほどの隙間では彼女のふくらはぎまでしか見れないその描写がまた印象的である。汗をかけている少年のクローズアップの表情も素晴らしい。そこから街で出歩いている女性の足元(ふくらはぎまで)をついつい見てしまう少年が可愛らしい。それと少年が望遠鏡覗いて一目惚れするシーンは可愛らしい。

それから朝鮮特使が現れて、子供たちが韓国のやつもいるらしい、敵(アメリカに飼われている)の犬がいるわけないだろうと韓国を批判しているところはやばかった。その後に起きる子供たち(不良同士)の血祭り場面には興ざめしてしまうが…あれは酷い。ほぼ終盤のプールサイドのシーンは音楽とともにすごく良かった。かなりノスタルジーな印象残す。それに最初に毛沢東が現れて最後にも毛沢東で終わると言う毛沢東だらけの映画だった。クライマックスの真っ青な水の中に吸い込まれていくかのごとく主人公の少年が真夏のプールに飛び込台を使ってダイブする場面はすごく印象的であるし、プールの真ん中で彼だけが仰向けに浮いているショット、助けを求める彼に周りの友達が助けるどころか、再び水の中に押し戻すように蹴り飛ばす水中撮影は画期的である。そこにこの映画の寂しさを溢れさせている術があった。

それにしても生まれた時から毛沢東の写真が家の部屋に飾られていたら、子供にとってはかなりの存在感(シンボリックなものとして)だろうなと感じる。しかもこの映画に出てくる毛沢東の巨大な写真(あれは垂れ幕かな?)が旭日旗のように太陽の光線のど真ん中に毛沢東主席の顔面が映っていて迫力満点だった。今の習近平とは全くもって迫力の差が違う(笑)。この映画逃げ惑う少年たちを懸命にカメラが捉えるのだが、撮影監督のチャンウェイはかなり苦労しただろうなと勝手ながらに推測する。彼と言えば俺の好きな第五世代の監督の作品ほとんど撮影者として出ている。この映画はきっと監督は記憶と思い出の狭間で、大切な何かが消えてなくなる前に映像として残したかったんだろうなと感じた。そしてセピア色に移り変わる過去の思い出は美しい限りだ。

美しいと言えばやはりミーランを演じたチンの水に濡れた上目遣いのエロスたっぷりな赤い光に包まれた場面は圧倒的だろう。あれはたまらなく素敵だ。まだ未成熟ながらも女の香りが漂ってくるかのようなエロスが画面いっぱいに満ちている。個人的に嬉しかったのが、主人公の少年シャオチュンの母親役を演じたスーチンカオワーが出演していたことだ。ほとんど日本では知られてないと思うが、私が今年中国の円盤化されてないVHSを大量に見つけて連続で鑑賞したときに、「犬と女と刑老人」と言うのと「香魂女」と言う作品に出ていて強烈なインパクトを残してた。実際にベルリン映画祭グランプリ受賞した映画であるし、この「太陽の少年」の母親役でも強烈なインパクトを残した。彼女の芝居はすごい現実味がある。


最後に余談だが、この映画を見た評論家の川本三郎とチアン・ウェンの対談の中にあったのだが、監督はマスカーニの音楽を聞いたときに、忘れていた子供の頃の記憶がどんどんよみがえってきて、この映画を小説と結びつけて作ろうと言うふうに構想を始めたそうだ。ちなみに彼はこの音楽を「タクシー・ドライバー」やその他の作品で知ったそうだが、中国では規制がありなかなか簡単に見れないそうではある。北京映画学院等にはフィルム・ライブラリーがあり、そこで一般に見られない映画がかなり見れるとのことだ。確かイラン映画の巨匠アッパス・キアロスタミこの作品を大絶賛していたと思う。長々とレビューを書いたが、まだ未見の方はオススメだ。
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