なにか

ヴィオレッタのなにかのレビュー・感想・評価

ヴィオレッタ(2011年製作の映画)
4.0
ストーリー★★★★☆
構成★★★☆☆
演出★★★★★

芸術家とモデル、という関係が存在しなくとも、娘の成長の中での母親との距離という問題では、誰しもが通る道ではないだろうか。娘とは、母親の叶えられなかった夢や理想を東映する存在になりがちなのである。
それは、娘への愛(自身が描いた最善の道)と期待(我が子なら自分を超えられる)が根本にあるが、時として、気づかぬうちに子供の首を締めてしまうことになりかねないのか。

この映画の中で、この母娘のモデルは非常にわかりやすい。ヴィオレッタが着るドレスだ。
同様の問題を主題とした作品では、幼い娘が母親好みのフリルやレースがたっぷりあしらわれた服を着せられている、という設定が使われることが多い。
娘は親の言いなりとなり、母のための着せ替え人形として存在していることのメタファーである。

この映画では、それだけに止まらず、アンナは芸術家であり、娘は自分の芸術作品として撮る、自分の理想の世界を創り上げるための究極の道具と位置付けられている。

ヴィオレッタは、母を狂わせるだけの十分な才能を持っている。他の子供たちの中にいても、一際目を引く美しい少女。その一瞬の輝きを最高の形で保存したいという、アンナの芸術家としての衝動も納得できる。
アンナはヴィオレッタを誇りに思い、期待し、嫉妬するほどに愛している。歪んでいたとしても、これはアンナの愛の形である。

しかし、アンナの愛は度を超えることで、道を踏み外してしまう。ヴィオレッタという存在が意思を持った個人であるということさえも忘れたように、彼女への要求はエスカレートしていく。年を重ねるごとに、美しい人形だったヴィオレッタには自我が芽生えていく。
母親に愛されるために言いなりとなっていたヴィオレッタが、次第に自分の母親を嫌悪し、拒絶していく思春期の過程に目が話せない。

ラストシーンの着せられたドレスを脱ぎ去って草原を走るヴィオレッタは、檻から解き放たれた野生の動物のように美しかった。
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