百合

ナショナル・シアター・ライヴ 2015「フランケンシュタイン」の百合のレビュー・感想・評価

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あなたに愛を教えてあげます

ジョニー・リー・ミラーasクリーチャ、
ベネディクト・カンバーバッチasクリーチャ、の順で見ました。
ミラーのクリーチャはなんというか可愛らしい。原罪の話をするシーンがあるけれど彼のクリーチャは無垢に産まれてきて、戸惑いながらも憎しみや嘘を身につける、後天的に罪を重ねるあり方に見えた。それに対して天才クソサイコ野郎なカンバーバッチもハマってましたね。婚約者と話す、いや話題がないけど話すって何を?なシーンがウケました。なぜ彼はこういう情を理解できない天才が似合うのでしょうか。
カンバーバッチのクリーチャは初っ端から異なっていて、産声さえあげないことにまず驚きました。思い通りにならない四肢に苛立つような彼の動きは狂気を孕んでいるようでこれも魅力的。彼のクリーチャは産まれながらに原罪を負っているのだろうかと思わせられます。対してミラーのフランケンシュタイン博士はなんというかまさしく天才という感じ…人間が持つ素朴な臆病さが上手く表現出来ていたのではないでしょうか。高慢で嫌な天才という感じはしなかったなぁ。
2つを通して思うのは、まぁ生命倫理や道徳の啓発という点で見るのが真っ先に出てくるのでしょうか。「これはあなたが創った世界だ」と叫ぶクリーチャ。何かを生み出すというのはそれの大小に関わらず世界を創造するということな訳です。良いセリフでした。
それよりもなによりもわたしが好きだったのは、フランケンシュタイン博士とクリーチャが唯一無二の関係になってゆくところです。それは嘘でも屈辱でも軽蔑でも憎しみでもないし、もちろん好むわけでもない。エックハルトはあなたでもなくわたしでもなくモノでもない…と突き詰めて神を表そうとしたわけですが、こういう神的な感情がここにはあると思うわけです。便宜上「愛」と呼び習わすしかないもの。ふたりの間にこれが醸成されてゆく過程が素晴らしかった。まさに放棄されたクリーチャは、言葉を学ぶにつれ自分の出自を探るようになる。わたしは何処から来たのか?誰によって造られたのか。そうしてヴィクター・フランケンシュタインにたどり着くことが至上の命になってゆくわけです。一方博士は絶えず自分のクリーチャの影に怯え、彼が現れてからは絶えずクリーチャを憎むようになる。けれど博士がその秘密を共有できるのはそれでも自らのクリーチャだけなのです。一種の共犯関係が生まれたところで、次のステップへ滑り出すこの物語ですが、メアリー・シェリーはその慈悲を奪います。今更ながらに事の重大さに怯えた博士の裏切りによって、一旦はふたりの仲が徹底的に裂かれます。目の前で自らの花嫁を殺されたクリーチャは、博士への復讐を誓います。復讐の意味はここで変わります。はじめに老人を殺したとき、クリーチャはただ傷つけられた自らの心のやり場として農民の一家に火をつけるのですが、ここではただ交換可能性に従って博士の花嫁を奪うことを決意するのです。近代の我々をとらえる交換可能性という概念。わたしが誰かに奪われた以上、わたしも誰かを奪うことができる。近代になってもたらされた平等の考えに基づく交換可能性がここでも息づいていることがわかります。(メアリー・シェリーの原作は19世紀初頭に書かれたものだと思うのですがそのころにはもうこのような考え方に馴染みがあったのでしょうか。それとも彼女が教養があったために導入されたのでしょうか。それともダニー・ボイルが特別に強調しているだけなのでしょうか。)博士の花嫁を奪ったクリーチャは、殺してくれと叫びます。(優しくしてくれたエリザベスを殺さざるを得なかったクリーチャの哀切さにはこちらまで悲しくなりました…)逃げ出したクリーチャを追う博士、ふたりの極地でのシーンでこの舞台は幕を閉じます。カンバーバッチのクリーチャは理性的なように、「生き残らなければならない。互いを殺すために」と呟きます。一番の見せ場であるふたりの邂逅。どちらの舞台もこのシーンがやっぱり一番好きです。互いの花嫁を奪い合って、互いが互いの目的になり合った、いわば互いが互いを“つくり合って”いるふたり。そのような関係から博士が脱落しかけます。飢えと寒さによって意識を失う博士をクリーチャは抱きかかえ、「置いていかないでください。あなたを愛している。」と祈りながらワインを飲ませます。息を吹き返した博士は「愛がわからない。わたしには嫌悪しか理解できない。」と告白します。それに対してクリーチャは「あなたに愛を教えてあげます。」と囁き、どこまでも自分を追いかけるように頼むのです。傷つけ合って、決して交わることはないふたりの関係。創造主と被創造物の関係。歪んでいるようでいて、このふたりは確実に満ち足りたふたりのようにわたしにはうつります。永遠に互いだけで成り立つふたりの世界は、あるいは愛と呼ぶこともできるのかもしれない。光の中へ消えてゆくふたりの背中は、観客にこの永遠を予感させるのです。
素晴らしい舞台でした。
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