ローズバッド

はじまりのうたのローズバッドのレビュー・感想・評価

はじまりのうた(2013年製作の映画)
2.0
阿久悠が観たら怒るだろうな

世評が高いので期待して観たが、ハマらなかった。なんでだろうと考えてみたら、単純に音楽の趣味が合わないからだと気付いた。劇中で作詞作曲された、心地良い軽いポップスが好みじゃないし、劇伴の既存曲のセレクトも趣味が合わない。唯一グッときた音楽的な瞬間は、屋上での録音で、娘が下手なギターを鳴らして、さらにボリュームを上げたノイジーな響きだけだった。要するに、耳障りの良い聞き流せるポップスより、歪さを持った詞や曲のほうが好きなんだ。これは、登場人物に関しても同じで、なんだかんだ問題を抱えながらも、それなりに幸運なキャラクターに全く感情移入できなかった。負け犬っていっても、素晴らしい才能に溢れていて、周りに才能を認めてくれる人がいるって、かなり恵まれている状況じゃないかな。本当の負け犬ってのは、『百円の恋』の安藤サクラみたいな人であって、そういう人のワンスアゲイン物語こそが、僕の胸に刺さる。この劇中のポップスが好みな人は、地下鉄に飛び込み自殺を考えるような歌詞とか、あまり好きじゃない気がするけど、どうなんだろう。

阿久悠について最近少し勉強したので、それに絡めても考えてしまう。シンガーソングライターの台頭によって、大衆歌謡の歌詞に広がりが無くなった、と阿久悠は嘆いた。「時代や社会とキャッチボールする」を信条とした阿久悠の作詞。個人的な経験や感情から生み出されるシンガーソングライターの作詞。明らかに本作の主人公は、個人的な感情を、特定の個人に向けて歌うことこそ至高としている。それが普遍性を持つこともあるのは承知の上で、やはり歌が小さくなってしまう傾向があるのでは?と危惧する。「2時間の映画のボリュームを、4分間の歌に盛ることも可能」だとしていた阿久悠。『津軽海峡・冬景色』『ざんげの値打ちもない』などは最たる例だ。本作の中で歌われた歌に、それだけの豊かさがあったとは思えない。まぁ、それが現代の大衆歌謡なんだろうけど。このような、歌が小さくなってしまう指向性は、本作の映画の作りにも共通していて、本作自体の感動を小さくまとめてしまっていないだろうか?一概に悪いこととは言えないが、阿久悠が観たら怒るだろうな。