鹿江光

沈黙ーサイレンスーの鹿江光のレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.5
≪90点≫:心の奥底にある沈黙。
原作は読んでいないので、本作で初めて『沈黙』の骨子を知ったが、これは凄い。観る前と観た後で、自分が生きている世界が少しだけ変わった感覚がある。決して大袈裟でなく、この世に生きる己の在り方が、形が、変化したような想いに駆られている。
テーマは「神の信仰と意義」であるが、教義の在り方であったり、教えの優劣を明確にするための作品ではない。そこで描かれているのは“信じる心”の在り方である。“信じる”と表現すると月並みな言葉に聞こえるが、信仰とは何を信じるかではなく、どう信じるかが重要であると感じ取れる。大事なのは信仰の対象ではない、信仰の所在である。それはキリスト教も仏教も同じ。己の外側に一心不乱に祈る限り、神は口を閉ざしたままだ。ロザリオや司祭や神父など、目に見える外側の形に神を見出す限り、その沈黙は決して終わらない。
しかし、ひとたび信仰の所在を巡り、己の内側に信じる心を見出したのなら、おのずと“沈黙の真意”が見えてくる。作中でも終盤のシーン、かなりの圧倒的な熱量で描かれている。無音であるのに、心が張り裂ける音が聞こえ、安らかな神の声が響き渡る。あのシークエンスはかなり脳裏に焼き付いている。神は天から見下ろしている存在ではなく、常に己の内側から寄り添う存在なのだ。そして心の奥底にある沈黙・静寂に耳を傾ける、その感慨こそが神の恩寵なのだ。
日本人の弾圧する過程も、行為だけを見ればかなり野蛮に思えるが、決して頭が固いとは思えなかった。彼らもまた今まで信じてきた心を、突如“真理”と嘯くキリスト教徒に脅かされたのだ。「真理は万人にとって普遍であるから真理なのだ」――そう語る司祭の言葉は、言うなれば“行為なき暴力”である。日本人の信仰を否定するのではなく、無きものとして、イエスこそが普遍であると説いた。これもまた信仰の対象を重んじていたからこそ……沈黙を沈黙として受け入れていたからこその帰結である。
それにしても凄い映画だったなぁ。BGMはなく、自然の音のみで観客を圧倒していく。メッセージ性も深く、とてもじゃないが全てを考え、言葉にすることはできない。ただ漠然と、何かが変わろうとしている。変わらないにしても、何かが心の近くで蠢いている気がする。本作は、痛みのない大きな傷跡を、心に深く残していった。
鑑賞後のカタルシスめいたものに浸りつつ、しばらくは放心の態が続きそうである。
鹿江光

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