Luciandead

第三世代のLuciandeadのレビュー・感想・評価

第三世代(1979年製作の映画)
-
「第三世代は、我々がよく知る今日の世代であり、熟考することなく行動し、思想的でも政治的でもなく、また、それを知ることもなく、操り人形のように踊らされてしまう世代のことである。」ロベール・ブレッソン『たぶん悪魔が』の結末部分から始まるこの作品は能動的な政治意識革命の終わりを告げる喪失感を描きつつ、しかしそれを笑えない喜劇として揶揄もしていた。今となってはこうした作品が作られていただけまだマシだったと思えるが。映画の中身はただひたすらダラダラと無意味な会話がラジオやテレビの音声と混じり合って四方八方から空間を埋め尽くし、結局彼らが何をしたいのかはよく分からない。政治から音響の実験という観点ならジガ・ヴェルトフ集団からソニマージュに至るゴダールの移行期とリンクしているようにも感じられる。また、ファスビンダー作品としては最初期に連作されていたギャング映画の集大成という見方もある。組織の面々は、その行動の幼稚さと比較すると若干年を経てしまっているように見えるのだが、それも初期からファスビンダーと関わり続けてきた面々だから仕方ないとしてもそれを強引に”第三世代”として演じてしまうのが如何にもフィクショナリティを重視するファスビンダーらしい気がする。そもそも彼らが組織に加わる理由をそれぞれ見ていくと皆個人的な理由で単につまらない日常から逃避して束の間のスリルを楽しんでいるだけのように見える。何も目的が無いにも関わらず何かを行動している組織。エディ・コンスタンティーヌ(『アルファビル』)扮するこの街を牛耳っているコンピュータ会社の社長が自社のビルの窓から街を見下ろし『惑星ソラリス』について言及し始める場面があるにSF的な様相、過去作『あやつり糸の世界』を思い出してしまったりするが、しかし具体的にここで起きている現状がどのようなものか我々にはあまり知らされない事がSFが有している警鐘としては上手く機能していないようにもみえて「もしかして自分も何も分かっていないのに踊らされているだけなのでは?」と一瞬不安に駆られたりしてしまったのだが、実はそれが狙いでこれこそ政治映画のあるべき機能なのかもしれない。
Luciandead

Luciandead