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セッションのkatsuのレビュー・感想・評価

セッション(2014年製作の映画)
4.5
素晴らしきラスト9分19秒~血とビートの殴り合い、恫喝の向こうの涙


この映画、狂異的な素晴らしさ!!!
まさに鳥肌と興奮と涙の106分だった…

だが、アカデミー賞の助演男優賞・編集賞・録音賞を受賞しているにも関わらず、日本では上映館数が極端に少ないのが非常に悔しい。


■シンプルさと狂気の熱演、「セッション」の概要

「セッション」の何が素晴らしいかを挙げていけばきりが無いのだけど、まずはその洗練された必要最低限の作り、コンパクトさに尽きる。
上映時間はわずか106分という短さ。
登場人物も舞台も極端に少なく、物語も時系列に一本道。
これだけ書くと薄味な映画に思えてしまうかもしれないが、この非常にシンプルなレールの上に極上の物語と演出が配置されているのだ。
結果として、とても観やすく、良い意味で頭を空っぽにして臨める。
事前の予習や予備知識なんかは不要。
音楽の経験も必要ない。
ただ、この106分に身を投じれば良いのだ。

物語は、主人公アンドリュー・ニーマンがドラムを叩くシーンから始まる。
彼は名門音楽大学に通う学生で、将来偉大な音楽家になる事を目指して練習に励む。
そこに現れたのが指揮者であり教官のテレンス・フレッチャー。
大声で厳しく彼の演奏にダメ出しする。
その後、フレッチャーの指揮するバンドにドラマーとして招待されたニーマンだったが、彼の常軌を逸した恫喝と暴力の指導に、次第に音楽家を目指し俗世を捨てていく事に…。
傲慢さと野心が見え隠れするニーマンに対し、一貫して厳しい指導を続けるフレッチャー。
彼ら2人の戦いは、思わぬ着地を迎える事になる。

基本的に教官と生徒の1対1の物語なので、物語の構造は非常にシンプル。
他のキャストは、主人公の恋人と父親、ライバルとなるドラマー数人程度。
舞台も、練習をする大学と発表会やコンサートの舞台が数か所。
それと主人公の実家にデート先が数点。
本当にこれだけ。
それもそのはず、本作の製作費はわずか3億。
驚異の低予算でアカデミー賞3部門を受賞したと、世界的にも話題を集めているのだ。

主役のアンドリュー・ニーマンを演じるのはマイルズ・テラー。
決して目を疑うようなイケメンではないのだけど、今作「セッション」における彼の演技は凄まじい。
ナチュラルに狂っていくその才能と傲慢さ。
少しオタクっぽい風貌が、音楽に懸ける学生としての説得力を持っている。
鬼教官テレンス・フレッチャーを演じるのはJ・K・シモンズ。
個人的にはライミ版「スパイダーマン」の編集長でお馴染み。
彼の演技は本当に狂気の極致。
怒り狂ったかと思えば、優しい笑顔もあったり、でもやっぱり怖かったり。
飴と鞭というより、鞭と鞭と鞭とたまに少量の飴、といった感じ。
観ているこっちの鳥肌が立ち、心臓を掴まれる。
このフレッチャーというキャラクターの信条が物語のキモなのだが、それを見事に成立させる熱演だった。

監督のデミアン・チャゼルは弱冠28歳。
自身がジャズドラマーを目指していた経験があり、それがこの映画に活かされたとか。
脚本も兼任しており、彼のシナリオが2012年のブラックリスト(映画化されていない脚本のなかでも特に優れた脚本のリスト)に載ったことで映画化に繋がったという背景も面白い。
詳しくは後述するが、確かに音楽経験者だからこそ撮れた画や演出に溢れていたな、と。


■こんなリアル、本当は観たくない!音楽という狂った世界

私が「セッション」になぜ憑りつかれたかというと、この映画が音楽界の歪な情景を見事に切り取っているからだ。
音楽、そして音楽家を目指す者の人生は、本当に狂っている。
私自身、長きに渡り楽器をやっていますし、音楽の世界で奮闘する者の苦悩には、多少理解があるつもりだ。

音楽家を目指すというのは、相当な博打。
仮に才能があったとしても、それに何倍もの努力を重ねて、更に運があってやっと成功のほんの一片が見えるか見えないか。
本当に狂った世界であり、表現は悪いが、普通であれば志さない。
やめておいた方が良い。
人生においてハイリスクすぎるからだ。
更に、音楽家を目指すという事は、莫大なお金がかかる。
楽器、練習場所、指導料…。
それだけの時間とお金をかけても、夢破れて音楽を諦める人が世界中に大勢いる。
夢を追うのはどのジャンルでも難しいのだろうけど、こと音楽については、本当に異質で狂っている。

そして、周囲からの理解も難しい。
「セッション」劇中でも、主人公は音楽をやっている事を半ば馬鹿にされてしまう。
「良いか悪いかは評価する人のセンスなんだろ? そんなの運じゃないか」。
スポーツとは違い音楽は、明確な得点が積み上がる世界ではない。
だからこそやりがいがあるし、だからこそ辛い。
そして、名門チームの二軍でプレーするアメフト選手の方が、名門大学の一流バンドで叩く専任ドラマーよりはるかに評価されてしまう。
音楽の「すごい」や「うまい」というのは、中々それをやった事が無い人には伝わらないものだ。
分かり易く伝えるための数的データもない。
孤独に狂った世界なのだ。

主人公ニーマンも、そんな世界に身を投じている。
やってもやっても届かない技術、周囲からの冷ややかな目線、理解を得られない信条。
彼の野心はフレッチャーの指導を受け、やがて傲慢さに変わっていく。
偉大な音楽家になるためには、全てを捨てていかなければならない。
寝る間を惜しんでドラムを叩き、手を血だらけにし、何度も絆創膏を貼っては氷水で冷やす。
画面から伝わるその「痛さ」に、思わず顔をしかめてしまう。
彼の孤独で前しか見ない戦いが、見事に画面に展開されていくのだ。
ああ、こいつ狂っていくな、常軌を逸していくな、と観ているこっちが心配になっていく。
でも、だからこそ報われて欲しい。
この、努力を超えた努力の成果が観たくてたまらなくなる。

画面全体の明度が極端に低く、暗いシーンが連発。
まるでニーマンの心情を投影したかのよう。
そして何より、バンド全員で行う全体練習の演出が素晴らしい。
指揮者が指揮を始める前のあの一瞬の緊張感。
空気が張りつめて、全員の視線が指揮者に集中して、まるで空気中のホコリが床に落ちる音まで聞こえるような、あのヒリヒリしたほんの一瞬。
あの瞬間を、この「セッション」は見事に表現している。
それは、楽器を構えたキャストの額の脂汗がくっきりと視認できる程に寄ったカメラアングルに、音の無い音、そして何よりJ・K・シモンズの強烈な眼光によるものだ。
厳しい指導者が始める合奏練習は、本当にあそこまで張りつめる。
空気が凍るのだ。

私は小学生の頃から吹奏楽をやっているが、当時とても怖い先生に教わっていた。
というか、今でいうと一発で教育委員会にクレームがいくほどの、暴力教師だ。
長い定規で頭をぶたれるのは毎日の事で、演奏中に間違えたら指揮棒が飛んでくるし、げんこつなんか当たり前だし、正座させられた状態でもみあげを引っ張り上げられたりもした。
土日も夏休みも無く、休日も朝から夕方までひたすら練習。
家に帰っても練習。
そしてまた怒られるの繰り返し。
何度も練習中に泣いたし、嫌で嫌で仕方がなかったし、その先生に本気で死んでほしいとすら思った事がある。
というより、当時は毎日のようにそれに近い感情を抱いていた。
しかし、私のいたバンドは全国大会の常連校だった。
結果はついてきたのだ。
そしてそれから20年以上経った今では、その先生が生涯の恩師だと思っているし、頻繁に連絡を取り合う仲になっている。

決して、音楽指導における体罰やいきすぎた指導を肯定するつもりは無い。
しかし音楽というのは、こういう歪な師弟関係や指導が「あり得る」フィールドなのだ。
往々にして、「あり得る」。
「セッション」の師弟2人のやり取りも、あの強烈な指導も、決してフィクションではない。
あれは紛れもなく、あの世界にある真実なのだ。
物語としてはもちろん創作だが、デミアン・チャゼル監督自らのジャズドラムの鍛錬の経験が(本作のように厳しい指導を受けた経験が)、この映画には確実に活きている。

異質な関係や指導が「あり得る」ほどに歪で狂った音楽界。
それを見事に表現したこの「セッション」は、俗にいう“リアル”な映画なのだ。
少なくとも、音楽をやってきた私には、そう感じる事が出来た。

本編中盤、フレッチャーが彼の本心を吐露するシーンがある。
「危険なのは、上出来(グッジョブ)という言葉だ」。
狂気の天才はいつだって“不十分”の烙印を押され、それを跳ね除けようとして努力を重ねてきた。
そこで諦め潰えた者は、成功しない。
彼の音楽指導における哲学が、ひいては人生哲学に繋がる印象的なシーンだ。
前述したように、音楽指導というのは、非常に屈折した行為だ。
それがまかり通ってしまう事が、本当はおかしい。
しかし、あそこまで常軌を逸した指導がもしかしたら「是」なのではないか、と思えてしまう程に、この「セッション」の空気感は絶妙だ。
観客が、“狂気に慣れて”しまえる。
映画に、狂気に対する説得力がある。
そのパワーに、頭がクラクラしてしまうのだ。

そしてその狂った師弟関係が、奇妙な絆に変化し、ラスト9分19秒に繋がっていく。
この瞬間、涙が止まらないのだ。
恫喝の先にあるあのシーンも、あのカットも、あの演技も、全てが昇華されたその先の展開全てが素晴らしいのである。
もはや「素晴らしい」としか言いようがない。

■なぜ「セッション」のラスト9分19秒は素晴らしいのか?

ラストの展開、それはあのステージでの出来事。
フレッチャーが見せた優しさは完全なフェイク。
行き過ぎた指導が露見し大学を辞めさせられた、そんな自らを陥れたニーマンに復讐するため、あえて嘘の選曲を伝え、観客の前で恥をかかせる。
一度離れ離れになった師弟がステージで絆を取り戻す展開かと思ったら大間違い!
フレッチャーが本番直前に「お前だろ」と告げた辺りから完全に脳みそグラグラ。
観ているこっちも「え?」と冷や汗が出る中、他の演奏者が次々と別の楽譜をめくり出す。
あの焦燥感は半端じゃない。
それでいて、演奏が始まると何とか食らいつこうとするニーマンが非常に滑稽。
横の弦バス奏者に「何やってるんだ!?」と言われるも、だってどうしようもないのだ。
あの数分間は非常に怖かった。
どんなにドラムを叩こうも、曲と合わない。
一応“それっぽく”合わせようとすればするほど、見苦しさが増すというあのジレンマ。
もう、正直観てられなかった。

そして、訪れる敗北。
フレッチャーの、自分自身のステージでもあるのにそれをあえて失敗にしてまで復讐するその徹底ぶりに頭が下がる。
ステージから満身創痍で身を引くニーマン。
抱きかかえる父。
「お前はよくやった」。
ほくそ笑むフレッチャー。
ここでニーマンが何を思い、何を決心したのか、考えると面白い。
彼はフレッチャーの本心や信条を、すでに知っている。
どこまで彼の意図を汲み取ったのか、どこまで理解したのか分からない。
また、今回のはもしかしたら単純な復讐劇なのかもしれない。
ニーマンが「どこ」まで考えを巡らせたのか非常に興味深いが、彼はまたステージに戻っていく。
フラフラと。

フレッチャーはマイクを持ち、観客に対して説明している。
「次はゆっくりした曲を…」と言いかけたその時、ニーマンのドラムが炸裂する。
たった1人での、ドラムソロ。
しかも、“ゆっくりした曲”だなんて絶対にあり得ないそのテンポ。
仰天する他の奏者に、目を見張るフレッチャー。
彼がニーマンを脅すも、聞く耳を持たずドラムを叩き続ける。
「合図する!」。
横の弦バス奏者にニーマンの決意の眼光が飛ぶ。
ここで、観ているこっちは物語の落とし所を完全に見失う。
まさかの展開なのだ。
以前ステージ上でフレッチャーに殴りかかったニーマンだが、彼の2度目の反抗は拳ではなく、ドラムだった。

そして、彼の狂気の演奏が周囲を巻き込み、他の奏者もそれに従うしかなくなる展開。
まさに「ねじ伏せる」。
ニーマンはその驚異的なテクニックと覇気により、周囲を強制的に演奏に連行した。
あのフレッチャーですらその曲に合わせて指揮をするしかない。
弦バスのビートが入り、ピアノが続き、遂に「キャラバン」のイントロに入った瞬間のあのカタルシスったらたまらない!
ニーマンのフレッチャーへの復讐が、最も“正当な”方法で達成された瞬間なのだ。
まさにこの数分間に、復讐劇が交差する構成になっている。
フレッチャーからニーマンへの、ニーマンからフレッチャーへの、互いの復讐がクリティカルにヒットするのだ。
しかもニーマンのは、この映画で終始求め続けられた圧倒的なまでのドラムテクニックによる復讐だ。
これで痺れない人がいるだろうか!

「キャラバン」の序盤、仕方なくこの曲の指揮に収まる事にしたフレッチャーは「お前を殺す」とニーマンに囁く。
そして、ここから!ここからの!J・K・シモンズの演技が本当に素晴らしい!
全ては表情の演技だ。
彼は気付いていく、ニーマンが仕掛けたこの「キャラバン」が素晴らしい演奏に到達しつつある事に。
ニーマンのテクニックが、パワーが、他の演奏者を見事に引っ張り上げ、バンド全体が何段階も高い次元に到達しようとしている。
J・K・シモンズの表情のひとつひとつから、それを読み取る事が出来る。
彼の、認めたくない満足感、それでもこの演奏に納得してしまう音楽家としての性、そのジレンマが読み取れる表情が完璧なのだ。

演奏中盤、管楽器の矢継ぎ早のリズムとドラムソロが何度も交互に行われるフレーズがある。
管楽器が「タラッタラッタラッタラ!」と鳴らすと、ドラムが「ドカドカドカ!」とソロで返す。
これが何度も繰り返されるくだりで、フレッチャーはとても楽しげに指揮をしているのだ。
両手の人差し指を交互に前に指して、この「キャラバン」を指揮する事を純粋に楽しんでいる。
ここ!
ここなのだ!
もうここで泣く!
ニーマンの演奏が、あのフレッチャーを楽しませたのだ!
あの鬼教官を、純粋に指揮する楽しさに導いたのだ!
もはやこの一瞬で、ニーマンはフレッチャーの指導を超越している。
弟子が、師匠の教えを超え、還元している。
一瞬前まで復讐し合っていた2人が、この瞬間、確かに同時に音楽を楽しんでいるのだ。
しかし、これはまだこの映画の最高到達点ではないのだから恐ろしい。

そして、やがて「キャラバン」が終わる。
が、ニーマンのドラムは鳴り止まない。
彼のドラムは怒涛の勢いのまま続いていく。
演奏に没頭し満足感を得ていたフレッチャーも、ここで流石に焦りを覚える。
しかしニーマンはまたもや「合図する!」と。
ここで、フレッチャーは彼の意図を察するのだ。

ニーマンのドラムソロは続く。
叩き続け、叩き続け、リズムを超越し、息と意識が薄くなる。
もはや何を叩いて何をしているのか分からなくなる程に、彼の意識は高次元に達していく。
あれぞまさに“ドラマーズ・ハイ”な状況だ。
しかし、意識が飛びそうになる彼の手綱を握るのは、フレッチャーだ。
彼がドラムのそばに歩み寄り、ニーマンのソロを見守り、そして指導する。
この瞬間、他の演奏者も、ホールの観客も、もはや2人には見えていない。
それは本編最初のシーンと同じく、まるで2人きりの練習室だ。
あの1対1の戦いが、もっともっと高い次元で、あろうことか本番のステージで再現されていく。
そして、今回ニーマンはフレッチャーの要求にことごとく応えていくのだ。

そして!
ここ!
ここだ!
ここがこの映画の最高到達点!
ニーマンのあまりのドラムソロと強打によりスタンドの接続が緩くなり、倒れかけたサスペンドシンバルを、フレッチャーが手に取り、立て直すのだ!
彼が!
あのフレッチャーが!
「大丈夫だ、そのまま続けろ」という表情でニーマンを自然とサポートし、手助けするのだ!

…もうこの一瞬で、私は完全に泣いてしまった。
ぶわっと、涙が溢れ出てきた。
絶え間なく続くドラムソロの最中に、これまでの師弟関係の全てが昇華されたあのシーンを観て、感極まってしまった。
フレッチャーがニーマンをサポートする。
手助けをする。
ニーマンがドラマーとしてこれまでにない境地に辿り着きつつある事を、鬼教官が認めた何よりの証拠である。
彼の教えに、恫喝に、暴力に、ニーマンが完全に応えて、あろうことか師匠を真っ直ぐにねじ伏せた瞬間なのだ。
あの一瞬で遂に完成した2人の絆を思うと、涙が止まらないのだ。

やがて終わりを迎えるドラムソロ。
感極まっているのは観客だけでなく、劇中のニーマンとフレッチャーも同様だ。
そしてそれはただのドラムソロではない。
「キャラバン」はまだ終わっていないのだ。
溜めて、溜めて、そして辿り着き、管楽器のハーモニーが「キャラバン」に幕を下ろす。
瞬間、「セッション」は終わるのだ。
スパッとエンドロールに入る。
見事!
見事である。
もうあそこまで行ったら、何かやるだけ野暮なのだ。
終わった後の云々なんて、もはや必要ない。
ビートで理解しあったのは、ニーマンとフレッチャーだけでなく、観客と「セッション」も同様なのだ。
ここでさくっと終わるその潔さが、ラスト9分19秒を唯一無二の素晴らしいシーンに仕立て上げている。

この「セッション」のラストの一連の展開。
まずは師匠から弟子への復讐、そして弟子から師匠への復讐、力技で復讐を遂げる弟子、それを認める師匠。
やがて、この「キャラバン」1曲の中で、どん底の状態からこの上ない高みにまで、2人の絆が構築されていく。
その瞬間、2人はもしかしたら初めて音楽を純粋に楽しんだのだ。
本当に見事だ。
最高だ。
最高としか言いようがない。
だからこそ、このラストの展開は素晴らしいのである。
このレビューのタイトルに「血とビートの殴り合い、恫喝の向こうの涙」と書いたが、涙したのは言うまでもなく観客である。
何かを失った訳でも、何かを得た訳でもない。
ただ単純に「到達した」からからこそ、そこに届いたからこそ、涙が出る。
このラストシーンがあってこそ、「セッション」は唯一無二の傑作になったのだ!

!!!最高!!!
katsu

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