ぺ

トイレのピエタのぺのネタバレレビュー・内容・結末

トイレのピエタ(2015年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

余命3ヶ月の画家になることを諦めた青年・園田宏(野田洋次郎さん)と女子高生・真衣(杉咲花さん)の少し変わった交流。と、周りの人達の物語。

荒い息遣いが何度も出てきてそれぞれが印象的だった。
それが生きているということなのかなとも思いました。生きている=呼吸をしているということ。宏が亡くなった後、隣のベットにいた前田さん(リリーフランキーさん)に連れて来られてトイレを見た真衣の息遣いが荒くなったところで、宏が死んでしまったことを強く感じました。あのシーンは単純に宏が亡くなってしまった悲しみと、真衣自身が生きる希望を見出せていない状況なのに自分は生きていてまだ生きるべき生命が失われてしまったことへの怒りが混ざっており、より一層深い物語を展開されていました。

真衣もやり場のない気持ちや自分を抑え込んで我慢しているが、感情を露わにする場面も多くすごく揺れ動いてる子であった。高校生という色々悩んだり考えたりする時期である真衣自身の今までの過去や背景を杉咲花さんは汲み取り演技をされていた。
真衣と宏、不思議な関係性ではあったがしっくりきました。死にたくて死ぬわけじゃない、まだ生きたい、生きてるのにもうすぐ死ぬ、死にたいのに死ねない、生きることも死ぬこともできない、入院と退院を繰り返す生活。その中でも人との出会いがありそこから新たな希望や絶望が生まれる。

タイトルの"トイレの"の意味。手塚治虫さんの本編でも語られ日記にもあったトイレにこだわる理由は"浄化と昇天"。意味を掘り下げると、トイレは排泄以外の目的で行く人がほとんど居ない汚いイメージの場所であるが人間が生きていく上で絶対に欠かせない場所であり、排泄物を水に流して体と心を浄化する。そしてそれが死と重なることで死を特別なものではなく排泄と同じ日常の一環だと示したかったのだろう。その証拠に絵を描いて息を引き取った宏の表情は一片の曇りも感じられない爽やかなものであった。二つ目に宏自身が画家志望でありながら癌によってその夢を断たれてしまったという経緯があり、だから彼は何としてでも画家として生きることにこだわり、何とか形にして認めさせたかったのであろう。その証拠に彼は柄にもなく商店街の窓拭きをしたり、病気で苦しむ拓人という子どもの為に絵描きまで行う。彼が一番恐れたことは死と共に自分の存在が消えて忘れ去られてしまうことだったとも読み取れる。こういう紆余曲折があったからこそトイレに描くことにこだわったのではないだろうか。

黒澤明監督の名作映画『生きる』にて名優・志村喬が演じる主人公・渡邊勘治と同じ胃がんに本作の主人公・園田宏が罹ったことからも分かるように、『トイレのピエタ』もまた、「生きる意味とは何か」をひた向きに問い続ける作品だと僕は思います。

主要な登場人物たちは、その殆どが自身の人生について、より正確に言えば"生"の問題に直面していく。余命宣告を受けた宏、わがままなど許されない家庭環境で暮らし、生きることへの疑問を痛烈に抱いている真衣をはじめ、"仕事"という生きる指標をあっけなく失った横田、幼くして病に罹り"元の生活"へ戻ることを希望し神に祈る拓人、息子である彼を失ったことでこれからの自身の生について嘆く母親などがそうである。そして生の問題ともに語られるのが"必要"という言葉だ。それが特に顕著なのが、横田の放った「そもそも人間なんてさ、この地球上に必要ないんだよね」という台詞。しかしながら、それが答えではないことを終盤における宏の行動が示しくれている気がする。宏は死ぬ間際までタイトルにもなっている通り、トイレのピエタを描き続ける。すでに亡くなってしまった拓人のために、依頼してきた彼の母親のために。あるいはこれから死ぬ自分のために、これから生きる真衣のために。

たとえ絵画というものや、それに縛られる自身が世界にとって必要な存在でなかったとしても、それでも"必要"を見出し生きようとする。そして宏が体現した1つの答えにも、真衣はムカつくと怒り、哀しみ、悔しがる。

それが"答え"ではないと訴える。
唯一無二の"答え"を提示するのではなく、あくまで「“生きる”ってなんだよ」と叫び続けます。「“生きる”ってなんだよ」とは、誰もが一度は抱いた疑問の言葉であり叫びの言葉であると思うが、それを二度と思い出さないように、目を瞑り、口を覆い、耳を塞ぐ人がこの世の中の大半である。そうやって逃避する人々に、真衣のごとく「ふざんけんな」という激情をぶつけ、生きる意味について再考させてくれるのが本作のコンセプトであると思います。
ぺ