わたしはうつくしい、という言葉のさす(おそらく)ある一部分にたいして、いやだな、という気持ちがあって、それがいつからか「うつくしい」ということばすべてへ苦手意識、攻撃性を感じるようになってしまっていたのだけれども、造詣への美もなにもかもをこえた、そのしわ、その声、その髪、くちびる、その手、ゆびさき、あなたというひとをつつむ空気と風、あなたのみる木々や空やどこからかたゆたっている煙、あなたが耳をかたむけ、ことばをきいたはずの、その世界のすべてのいっさいがうつくしかった。
エンドロールのあいだ、もうわたしのいるところからはいなくなってしまった人のことをかんがえた。その人とみた桜のことや、その人と話していたこと、話せたはずのこと、聴いてほしかった歌のことをかんがえた。あなたのみることができなかったわたしのことをかんがえた。あなたはわたしにとって、愛された記憶そのものだった。
時間というものはおそろしく、さまざまなものをわたしたちから奪ってゆく。けれど時間とともにちからづよく枯れてゆくもの、隠しも抵抗もすることなく、すべてをうけいれ老いてゆくものは、「うつくしい」ということばは言葉を失くしもはや無力であり、それはみずみずしくさみしくしなやかに、うつくしいということを、どことなく必然的に感じた。