デヒ

仁義なき戦いのデヒのレビュー・感想・評価

仁義なき戦い(1973年製作の映画)
5.0
 この映画はヤクザの人生を描いている。 私がヤクザとマフィアという単語を聞いた時、一番先に思い浮かぶのは”仁義”だ。 ヤクザは同じ考えの人たちが集まって一つの派閥を作って、仁義で団結したまま行動する。 ヤクザたちは外的に見れば恐ろしい存在だが、自分たちを何よりも第一と考える、仁義で団結した家族のような存在だと思う。 私がヤクザについてこんな認識を持つようになったのはヤクザ間の仁義と誓いを主導的に描いた"任侠映画"をたくさん観たからだと思う。 このように私はヤクザという人物について偏狭な考えを持っていた。

 この映画の題名は『仁義なき戦争』だ。 仁義がないとは何か。 お互いを信じられなくて裏切り、血なまぐさい戦いが起きることを暗示することができる。 映画にはこれを証明するものがいくつかある。1番目は、主人公の昌三 (菅原文太)の派閥である山守派のボス(金子信雄)は、自分の利益のために昌三 をはじめとし、様々な部下をこき使う。 正蔵にいつも’頼む’と言う。 後半に昌三 と山森派の2目のボスだった哲也(松方弘樹)が対立する場面があるが、これも親分が部下たちの仲を裂いたために現れた結果である。 2番目は、昌三 がボスの意志に従って相手派閥の土井派のボスを殺すことになり、引きこもり生活をしている途中、同じ派員であるガンバラの裏切りで警察に捕まり、刑務所に入ることになる。 三番目、山森派のナンバー2となった哲也は自分だけの理想を実現させながら生きていくが、結局は彼の部下たちによって殺されることになる。 それでも何よりも最も衝撃的なのは、最初は他の派だったにもかかわらず、昌三 との仁義を重視した土井派のナンバー2である若杉(梅宮辰夫)が、他の派員の裏切りで悲惨に死んだことが衝撃的だった。 このように同じ派閥の間には絶対的な仁義と忠誠だけがあふれていると思っていたが、裏切りとごまかしもたくさんある。 仁義の対義語は"裏切り"だ。 この映画のあらすじは、山森派と土井派の戦いのように見えるが、結局は全体の枠組みを見ると、山森派内の裏切りと戦争だと思う。 仁義を重要視した任侠映画の公式が破られる始まりだ。

 映画はヤクザ、すなわちアクション映画によく合うよう、躍動性とアクション性がよく表れている。 何よりハンドヘルド技法が多く使われている。 ハンドヘルドはカメラを置いて人物を観察するように撮影するフィックスショットではなく、カメラを動かしながら人物の動きを追う撮影技法であるため、躍動性を效果的にうまく表現することができる。 戦いのシーンや走るシーンなどでハンドヘルドを使い、躍動性をよく表したと思う。
映画を観ていると、画面がやや傾いて見えるキャンテッドショットを発見することができる。 対角線に見えるため、観客がこの場面を見た時、一般的ではない他の感じを受けることがある。 映画内では序盤の主人公である昌三 がヤクザを銃で殺した後をキャンテッドショットで見せた。 多くのアクションシーンでキャンテッドショットを発見できる。 観客にその状況と場面を強調することができる。 その他にも、急激なクローズアップや高い音の主題曲など、映画はいろいろな技法を用いて観客に躍動性を伝えている。

 この映画は青春映画なのか。 私が思う青春映画とは、主人公が周辺人物と状況に影響を受けて成長するストーリーだと思う。 このような定義になぞらえてこの映画を解釈しようとすれば、全体的なジャンルとストーリーはアクションヤクザ映画であるにもかかわらず青春映画が成り立つと思う。 主人公の昌三 は一般人(密輸者)だったが、殺人事件で刑務所に収監され、そこでヤクザに会って同盟を結ぶことになり、ヤクザの世界に足を踏み入れることになる。 土井派のナンバー2である若杉のおかげで早期出所ができ、紹介で出会った山森派に対して絶対的な忠誠心を抱くようになった。 昌三 は自分に降りかかる危険を甘受したまま、仁義という名目で全ての命令に従うことになる。 しかし、周りの人が死んだり裏切ったりするなど、様々な姿を見るようになり、ヤクザ生活に対して懐疑を抱くようになる。 最後は、同派の友人だった哲也の死後、葬儀場で複数のヤクザ幹部が見守る前で、位牌などを銃で撃ち壊し、その場を去る。 ヤクザの人生から立ち去るような姿を見せてくれる。
最初は絶対的な忠誠心を持っていたが、最後は去る姿まで。 昌三 は様々な事件を経験しながら成長した。 これは青春映画で見せようとするメッセージと同じだと思う。
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