youcan

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明けのyoucanのネタバレレビュー・内容・結末

4.0

このレビューはネタバレを含みます

#WARNING#WARNING#WARNING#WARNING#WARNING
※これは死ぬほど長いレビューです。スーパーレビューです。原稿用紙27枚分あります。読むのであれば、心してお読みください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

スター・ウォーズ エピソード9を一言で表すのならこうだろう。
【これは、決意の物語】


正直に言えば、見る前から不安があった。私はスター・ウォーズの大ファンというわけではないし、むしろにわかにすら届かない、ただの映画好きだ。色んな物語に触れ、その話の根幹にあるテーマ性を理解し、製作者サイドがどういった方向性に観客を導きたいのか、何を伝えたいのかを知ることを楽しみとしている。その考えをあれじゃないか、これじゃないかと推察し、監督(もしくは脚本家)のひとりの人間としての「感情」を読み解くことが、作った人への敬意だとも思っている。

その意味で、このスター・ウォーズ エピソード9 スカイウォーカーの夜明けは、最初から私の中で批判の精神が渦巻いていた。あのスター・ウォーズの最終章だというのに、話題性がアナ雪2に負けていると感じたからだ。話題に上がらない、それはつまりドラクエのYour Storyよろしく、クソ映画だというレビューがSNS上で飛び交い、うっすらと背景のように飾られているからだろうと思った。見たいけど、見たくない。批判する前提で見に行くなんて金の無駄だ。結末が気にならないわけではないが、見る前から分かる。スカイウォーカーの夜明けはクソだ。なぜなら前回がそうだったからだ。

そんななんだか斜に構えた心境で、映画を見てきた。フラットな精神で見るつもりだったが、心のどこかで「つまらないだろうな」と悪点をつける前提で見ることを決めた自分がいた。だからだろう。映画を見終わった後自分に驚いた。
『……おおおお!! なんだ! 結構面白かったぞ!!!!』
これが私の正直な感想だ。

勿論私はこれを見た大半の人と一緒で、いろいろ細部に突っ込みたいところはある。映画としての出来栄えが「完璧!」「完全!」「最高!!」と言うには足りない。一歩どころか五歩ぐらい足りていないとも思う。でもスター・ウォーズの締めくくりとしては、そして世界中のスター・ウォーズファンに向けた映画としては、上出来だ。そして私がなぜ上出来かと思うかというと、監督J・J・エイブラムスの心の根っこを感じることができたから。
つまりは、この物語のテーマ性。監督がこの映画に込めた想い。何を根っこに作ったか。
本人に聞いたわけではないから分からないが
冒頭にも書いた通り、私はそれを「決意」とみている。


スター・ウォーズの新三部作をわかりやすく表現する場合、それは一枚の絵画に例えられる。
7ことフォースの覚醒。全体のざっくばらんとした下書きと、書こうとしている絵の構図が見えた。それを見ていた観客は声を上げる。
「これこれ! これだよ! 私達はこれが見たかったんだ!!」
「これぞスター・ウォーズだ!」
「もう一度この世界観の絵が見られるなんて!」
この感想は当然だと思う。7は旧作ファンを置き去りにせず、かつその世界観を丁寧に紡ぎながら新しいキャラクター達も好きになって貰えるよう、スター・ウォーズの世界に受け入れて貰えるようかなりの配慮が盛り込まれたからだ。

そして8こと最期のジェダイ。観客から悲鳴があがる。書き手が替わったことが仇になったのか、中央部に死ぬほど’デカい’シミが絵についてしまったからだ。悪い意味で目立ってしまい、観衆は騒然とした。
「なんてことしてくれたんだ!」
「こんなのスター・ウォーズじゃないわ!」
「作り直せや!!」
8の作り直しを要求する署名活動まで行われたというのだから、根っからのスター・ウォーズファンはそれほど愛が深いということだね。私からしたら暇人だなとも思うが、しかし同意見の自分がいるのも確か。私も思う。8はクソだ。掃き溜めのゲロだとも思っている。バラのような形に見えるこのドデカいシミは決して簡単に落ちない。これがマイナーな映画ならいざ知らず、よりよってスター・ウォーズでやらかしたのだから始末が悪い。監督のライアン・ジョンソンが一概に悪いとは言えない。新三部作の方向性と全体像をうまく伝達しきれていなかったエイブラムスも同罪だと私は見ている。だが、割合でいえば7:3ぐらいか。ライアン・ジョンソンの作った8が大半の人にとって、納得のいかないシミに見えてしまっているのは事実だからだ。

そして今回の9。繋いだバトンはずっしり重く、想像していたより悪い状況でエイブラムスの元へと返ってきた。7の頃からの伏線を回収しなければならず、8の物語の続きであるという点を考慮して作らなければならない、そして’次が無い’ため話を終わらせなければならない。どうする。どうしたものか。どうすればこの絵を完成させることができる。

方法は2通りしかなかった。
①8でできたシミは決して消えない以上、このシミすらも絵の一部として絵画を描ききる
②シミ消しを行い、最初に描こうとしてた絵を書く
映画を視聴した方ならわかるだろう。そう。エイブラムスは②を選んだというわけだ。
お気づきだろうか。このスター・ウォーズ新三部作。7を見終わって、8を飛ばし、9を見ても話が通じるということを。J・J・エイブラムスはそれはもう丁寧にシミを抜いた。丁寧に丁寧にシミを抜き、パッと見シミがあったなんて嘘かのように絵画を修復させ、絵の続きを書き、そして完成させた。よくよく見るとうっすらとシミが見えてしまうのだが、それでも構わないとばかりとにかく絵の完成を第一優先に置いたわけだ。
そうやってできた絵画を見て、観衆は次のように言う。
「前のスター・ウォーズシリーズの方がよかった」
「思ったより面白くなかった」
「ローズはブス」
「まあ前よりはマシだけどつまらなかった」
「頑張ったと思う」
「思ってたよりは悪くなかったけど、想像を超えてくることはなかった」
とのような感想を述べている。

私は出来上がった絵を見て、「悪くないじゃん」と思った。確かにこの一枚の絵が歴代のスター・ウォーズの絵画に勝るかといえば「違う」と答える。しかし監督のシミ抜き作業、消えなかったシミからの伏線回収、それなり(ギリギリではあるが)に納得できる解釈も用意し、かつ終幕にふさわしいラストとテーマ性を盛り込まれ、「できたぞ!」とにこやかに絵を掲げる監督の表情が思い浮かぶ。ファンサービスも欠かさず、デカい風呂敷をプレッシャーの中畳んだその手腕は間違いなくプロだ。だから私はこの映画に評点を4にしている。5じゃないなのは、4.1を超えるにはふさわしい出来ではないと思ったからであり、三部作通して見てしまうと計画性の粗が目立つ点と8のシミがどうしても気になってしまうから。そして、何よりも使ってはいけないシミ抜きを使ったから。

……比喩を用いて、分かりづらかっただろうか。もっと単純に書こう。その時使った超強力なシミ抜きの名前が「パルパティーン皇帝」だったというわけだ。


スター・ウォーズはなぜこれほどまでに人気があるのか。スター・ウォーズの人気は、正直ちょっと異常だ。ありえないぐらいの人気を博している。なぜか。
私はスター・ウォーズという映画が一つの価値観を生み出したからだと思う。
スター・ウォーズ4は当時の映画のレベルから言えば群を抜いていた。SF映画はスター・ウォーズ以外でもあったが、練りこまれた設定やセットや衣装・山ほど出てくる地球外生物の数々、「本当にこんな世界があるかもしれない」と見ている側を錯覚させるような、従来のSFからは想像もしなかった世界観を世にぶつけてきたのがスター・ウォーズだったのだ。そしてライトセイバーという最強の武器、ブオンブオンと日常生活ではまず聞くことのない音。これらがそれまで無かった価値観を、感覚を、脳のドーパミン放出を促進させ、信じられないほどのブームを呼んだのだと思う。そして後に公開された5,6のテーマも実によかった。「親子の絆」でもあり、「息子は父を超すことができるか」という、どの家庭にもありそうなわかりやすく共感を呼ぶテーマが5,6には設定されていた。それが人気に拍車をかけ、今のスター・ウォーズを形作っているのだと思う。とある人気Youtuberが「子供の頃は123が好きだったけど、今は456の方が好き」と言っているのを見て、最初私は「何言ってんだコイツ??」と思った。が、驚いたことにその通りだった。
大人になってから456を見ると、その物語のテーマの情の深さに「これは人気も出るわ」と正直な感想も抱いた。もちろん123のCG技術と比べると、チャチい。ライトセイバーバトルも白熱しないし、見てて迫力が無い。だが惹きこまれるのだ。映画の世界、スター・ウォーズの世界、ルークとアナキンの世界にグッと心を持って行かれる。そんな映画がスター・ウォーズというわけだ。異常なほどの人気はそんな(当時の)時代を先んじた技術と設定と映画の中の人物と心通わすテーマがあるからこそだと私は理解した。

456の全体を通してできた付加価値とテーマが「これまでになかった新しい映画」「親子の絆」だとするならば、123は「技術」と「前作を超えるライトセイバーバトル」だ。
456では表現しきれなかった宇宙という世界観を最高のCG技術で表現し尽くし、そして456よりも手に汗握る本物の戦闘を描き切った。当時123は割と批判を貰ったようだが、しかし未だに「映画史上最高の戦闘シーンは?」という疑問に対し「クワイ=ガン・ジン&オビ=ワン・ケノービ VS ダース・モール」という回答が出てくるのだから、やはりそれなりの爪痕を残していると私は思う。何よりも7の公開のCMで、7の劇中で使われていないダース・モール戦のBGM(運命の戦い)が使われていたのはその根強いファン層が一定多数いることの証明にしかならないのだ。


さて。ようやく本題だ。じゃあ789は? と聞かれた時。789はどうなの、何かできたの? という質問に対して。特に何も無いという回答が、見た人の大半に浮かんでいると思う。だから9はそこまでの話題にならないのだ。
決してつまらないわけではないが、456のような新しい価値も、123のような目を見張るようなCG技術も、スーパーバトルも無い。おそらく純粋に狙える付加価値は「帰ってきたスター・ウォーズ」であり、「お前ら、コレが見たかったんだろ? 是非楽しんでってくれよな!!」というのが本来の狙いだったとは思う。だからだろう? ディズニー映画なのにその象徴ともいえるお城を消していたのは。これがファンへ向けた映画だからだ。スター・ウォーズが好きな人のために作られた映画だからだ。だからこそ帰ってきたスター・ウォーズを演出したいがために全体像がぼんやりとしか定まっておらず、今までが三部作だから今回も三部作でとなっているのだ。だが、「帰ってきたスター・ウォーズ」を演出するにはあまりにも8の悪評が広がりすぎた。お帰りと暖かく迎え入れて貰うには、現在はSNSが発達しすぎていて無理だ。どうする。どうするべきなんだ。ここで監督は使わざるを得なかった。もう使わないことには事態の収拾がつけられない。強力なシミ抜きことパルパティーンを。
パルパティーン皇帝を使うということは、いってしまえば禁じ手だとは思う。出てきて嬉しくないわけではないし、スターウォーズファンは「パルパティーンやんけ!!」とバイブスが上がるのだろうけど、パルパティーンを出すということは旧3部作には勝てませんでしたと敗北宣言をするのと同じだからだ。456でパルパティーンは死んだのだ。死んだからこそ銀河に平和が戻る(戻ってないけど)予定だったし、最期に正しいフォースに導かれたアナキン・スカイウォーカーの姿が目に焼き付くのだ。だから決して使ってはならない最後の手段だったといえる。もし、もし百歩譲って使うにしてもそれなりの伏線を7、8に用意しておかなければファンは納得しない。ファンを舐めてはいけない。そこまで馬鹿じゃないのだ。
「これ、アレだろ。スノークをラスボスにする予定だったけど、8でアッサリ死んじゃったから、パルパティーン皇帝出したんだろプススー」
そう思われても仕方ないことだったと私は思う。でももう、他に手がないのも確か。ここでレイの出自を明らかにしていなかったことが活き、加えてフィンがストームトルーパーから脱走した設定が活きてきた。最初から唯一用意していた伏線を9で回収する。監督の方向性はこの時決まったのだろう。狙っていた「帰ってきた僕らのスター・ウォーズ」も無理だと。ならばメッセージ性で勝負だ。中身のないスカスカの映画になどしたらそれこそジョージ・ルーカスに顔向けできない。だとしたら監督が肌で感じていた「フォースとは何か」「フォースとともにあれとはどういう意味か」で映画の底を上げるしかない。
つまりはだ。
「己が何をしたいか。お前のやりたいことはなんなのだ。
そうこれは。自分の本当の心の在り方を定める決意の物語だ」と。

それがわかりやすく表現されているのはフィンとジャナ(元ストームトルーパーの女性)の会話。自分の意志に従い、フィンはストームトルーパーを辞めて脱走、ジャナも市民を殺すことを辞めて逃げてきた。自分が生まれ育った環境や、周りとの同調で自分の姿が見えない時があるけれど、「お前はどうしたいんだ」という己の問いかけに対し正しく返答したのが彼らだ。

ではレイはどうか。レイは自分の血筋からあのパルパティーン皇帝だと知り、自分は生まれながらにして「悪」だと思った。現に手から悪の存在証明ともいえるフォースライトニングを放っている。コントロールの効かない度の外れた力に、玉座に座る悪としての自分。どうすればいいのか、何が正しいのか。誰か答えを教えてくれと、彼女は彼女なりに苦しみ、心の葛藤を抱えている。そんな彼女の血統を知っているからこそ、才能があるならそれを活かせと諭すのがカイロ・レンだ。あなたの祖先は「ジャック・ザ・リッパー」です、なんて言われたら「あの惨殺魔の子孫!?」と誰だってなるはずだ。レイはそれのパルパティーン版だと言える。

いってしまえば、これはハリーポッターの組み分け帽子とも似ている。「スリザリンになろうぜ!!」と勧誘してくる帽子にハリーはこう答える。「スリザリンは嫌だ。スリザリンは嫌だ」と。

レイは結局のところどうしたいんだ。お前はどうなりたいんだ。自分の血筋や力を度外視して、お前自身はどう在りたいのか。「フォースとともにあれ」とは、その本心に誠実に向き合うことだというのが監督なりの答えだろう。7でハン・ソロを殺したカイロ・レンも、8で垣間見えた「効率的に世界を正しくするためには自分がトップになるのが一番。そのためならば悪になるのもいとわない」という理性が働いていて打算まみれだったが、本心は「ベン」として非効率でも構わないから正義として戦いたかった、だ。人間には欲が湧く。心が分かってくれなくても、頭はどうすれば効率が良いか、どうするのが一番利益になるのかを算出するのが得意だ。そうやって人間が育んできた’知恵’をフォースはあえて捨てろと言っているのだ。
そんな捨てるなんてできないよ!
と大半の人は思うし、心のしたいことをわかっていても不利益を被るのはやはり人として嫌なものだ。しかしフォースの理論は動かない。
「難しく考えるな。自分の心に正直になれ。やりたいことをやれ。自分が正しいと思う道は行け。頭でごちゃごちゃ考えるのではなく、生きたいように生きろ。分かるか。フォースとともにあれとは、自然と一体化するというのは、こういうことだ」
レイアの息子を想う気持ちがフォースとして通じ、カイロ・レンはベン・ソロへと戻った。レイは敵であるカイロ・レンを殺したが、救いたいと思ったから救った。最終的にその救ったベン・ソロがレイの命を救い、レイは最後のスカイウォーカーとして生きていく。

8,9のフォースの力はあらゆる意味で従来のフォースからはかけ離れていったが、私はぶっちゃけ嫌いじゃない。フォースのやり取りでラインみたいな脳内会話ができるのも、なんかもう空間を超えて戦うことができるのも、フォースと一体化になったはずのルークがライトセイバーキャッチしたり船浮かせたりやりたい放題になってはいたが、それも含めてぶっちゃけ嫌いじゃない。見ていて伝わってくるからだ。
「これ、監督は相当覚悟を決めてやったな」と。
あのフォースの乱用は8でやりすぎてしまったからに、今さら元に戻すわけにはいかないという気持ちがあるように思える。それだけではない。「もうどうせ最期だからやっちゃえ、えーい!」という投げやりだったら見ていて不快になったかもしれないが、「フォース」という目に見えない力・概念を、スクリーンを超えて観客に理解してもらうためには、いってしまえばああいう8の離れ業をさらに超える必要があると踏んだのだろう。どういう原理なんだよ!とそりゃあ突っ込みたい気持ちがないわけではないが、ああいう超常的な部分だけに惑わされてはいけない。フォースは見た目が派手な映画的なフォースと、禅にも近い一種の哲学体系ともいえるフォースがあり、監督はその後者のフォースを見た目が派手なフォースで覆い隠しているに過ぎないのだ。
だからこのスター・ウォーズが「微妙だった」「安直だった」「456と同じ」といった感想を抱いているのであれば、本当の意味でこの監督の言わんとしていることが伝わっていなくて残念だと思う。
これがフォースという理念を通じた、
それぞれの登場人物の「決意」の物語だと思ってみれば、
ハッキリ言うが、
全く違った視点でこの映画が見れると思う。


ここでひとつクイズを出したい。フィンがレイに伝えようとしていたことはなんでしょうか?
これは製作サイドが意図してやったのか、それとも偶然そうなったのか、あるいは私と同じでクイズを楽しんでもらうよう残したのかは分からないが、
フィンがレイに伝えようとしていたことはなんだったのか。これが実は劇中で明らかにされていない。
結局フィンはレイに何を言いたかったのか。これは分かる人はいるだろうか。
無論、製作サイドが答えを出していない以上、明確な正解は無い。無いし、答えをそもそも用意してない可能性だって大いにある。でも、この映画を真剣に見て、悪い方向ばかりではなく、うっすらとでもこのスター・ウォーズの言わんとしているテーマはなんなのかが伝わっていれば、映画を見終わった後に疑問に思うはずだ。結局フィンは何が言いたかったんだ? と。あまり面白くなかったと感じた人は、疑問にすら思わないだろう。

……告白? レイが好きだと伝えたかった? うーん。ありえる。
ありえるっちゃありえるが、私は違うと思う。映画を見終わって、1時間半近く車に乗りながら私はずっと考えていた。フィンは何を言おうとしていた? なぜ劇中で答えを明らかにしなかった?
否。違うのか。なるほど。フィンはレイに言おうとしていたことを、確かに劇中でレイには言わなかった。しかし、レイ以外に言っていたとしたらどうだろう。これならば、おかしくはない。製作サイドはきちんと答えを用意しているし、あの流砂の中フィンが伝えようとしていたことはなんなのかの正体が分かる。
私は帰路に着く時、映画を思い返し、フィンの問いかけに該当しそうな箇所を洗った。思い浮かんだのはフィンとジャナの会話だ。
「フォースを疑っていた。でも今は信じてる」

さらっと。解答を何気ない箇所に仕込んでおく。そしてその解答をレイにではなくジャナに言う。これなら映画のテーマ性を簡単に悟られないし、劇中の中で答えもちゃんと用意している。そして私が推察していた映画のテーマ性とも合致する。つまり、フィンがレイに言いたかったことは
「俺、フォースに目覚めたかもしれない!」
だ。

これはあくまで私の妄想であり、違うよって言われたら「なんだよー。考えすぎかよー」でおしまいだ。だが確信がある。なんとなくわかるんだと、敵の組織艦隊に爆弾を設置し見事パルパティーンサイドの山ほどの艦隊を葬ったのはフィンだ。フィンは目覚めかけていたのだ。フォースに。直感の領域を超えた新たな次元に片足を突っ込んでいたのだ。レイやカイロ・レンほどではないにしろ、その超能力ともいうべき力の片鱗に触れた。だから今はもう「信じている」のだ。

フィンは別に特別な家系ではない。レイのようにパルちゃんの孫でもなければ、ベンのような「僕のおじいちゃんダースベーダー!!」みたいなこともない。どこにでもいるストームトルーパーで、どこにでもいた普通の男性だった。だがある日、自分の本心に従い、これは間違っていると思い、反旗を翻し、心の赴くまま生きてきた。だからこそ自分の感覚が鋭敏になり、よけいな理性に惑わされることがなくなったのではと考えている。

つまりはだ。フィンのような普通の人間でもフォースは目覚めるし、それは誰でも持っている。これは映画の中のお話だけではなく、スクリーン越しで見ている貴方たちも例外ではない。フォースとともにあれとはそういうことだというメッセージ。

そう思いながらもう一度見てみると、この映画つまんねと思っていた人たちもきっと楽しく視聴できるはず。
私は少なくとも、見てよかったと心がほっこりとなった。


とまあ。良いことばかり書いてきたが、無論「いやこれはあかんでしょ」というのもいっぱいある。

①展開早すぎ。まあでもそりゃそうだろう。実質8を無かったことにしているもんだから、2個分の映画を1つにまとめないといけない。そりゃあ駆け足気味にもなるでしょうね。だからか宇宙駆け巡る話も「ハイ次!ハイ次!」と流れ作業のようになってしまう。「スター・ウォーズといえば星間を跨いでいかなきゃ!うおおおお」と咆哮が鳴り響くような’とりあえず達成しなきゃいけないノルマ’がチラチラと見えた。

②戦闘シーンがなんかショボい。良い言い方をするなら「456寄り」。悪い言い方をすれば「123に劣る」。スター・ウォーズといえばライトセイバーバトルが何よりも熱く、やはり1と3の戦闘は何回見ても「かっこよ!!」ってなる。が、今回はならなかった。戦闘シーンは多いし、レイVSカイロ・レンだから、シチュエーションとしても悪くはないが、なんか普通だった。もっと凄いのが見たかった。ラストのパルパティーン戦も凄い戦い見たかったけど、なんか両足でズンズン進んでったら相手が勝手に自滅した。「うそん」って思った。あと、ライトセイバー2本持つならどっちか片方緑にしてくれよ。両方青かよ。最期オレンジ(黄色か?)にするなら、その前に「赤と青と緑を足したらオレンジになるよ!!」って分かりやすくするためにも緑にしてほしかった。私は緑のライトセイバーが好きなんだ。そしてさらに欲を言うならベン&レイでパルパティーンと物凄いライトセイバーバトルをして倒して欲しかった。

③ローズ。8であれだけでしゃばっていたローズを全く参加させないのは確かに変な話だから、その出演時間を大幅に削ってくれたことは感謝する。しかし奴が映る度に8の悪印象が蘇って9が純粋に楽しめなくなるのも事実。これは9が悪いというよりは8が悪いのだけれど、8が残した死ぬほどデカいシミはやはり9でも遺恨を残す。

④ストーリー全体。9というストーリーは嫌いじゃないし、上記で散々良い部分だけを書いてきたからアレなんだけれど。悪いレビューをするなら9のテーマは56で描いてきた「親子の絆」と被る面もあり、これなぞってるだけじゃね? と評されても致し方ないとは思った。勿論9と56は違うテーマだし、レイとカイロ・レンの関係性がルークとダースベーダーとの関係とは異なった結論を導き出しているのは良いと思う。けれどもやはり「芽生えた絆」という部分が少しでも被ってしまっているため、新鮮味に欠けるというか面白みに欠けるというか、テーマで勝負してるからそりゃ被るようなあという感想はある。

⑤音楽ところどころ美女と野獣っぽいの入らなかったか? いやまあ、違和感ないから別にいいのだけれど。これは音楽が悪いというわけではなくて、どうしてもディズニーが絡んでいるから美女と野獣っぽい音楽が流れるとスター・ウォーズ感が薄れてしまうと思っただけです。

⑥パルパティーンの……孫? いやまあ、仕方ないとは思うけれど。パルパティーンの……孫、かあ。マジかあ。え、奥さん絶対すげー美人じゃん。どうしたパルパティーン。
以上くらいだ。細かいところも探せばあると思うが、今のところは目をつむっている。


かなり長々と語ってきたが、8で失った信頼を取り戻すために、でも8で紡いできた物語をゴミとしないためJ・J・エイブラムスが尽力していたのはさすがと思う。破壊したカイロ・レンマスクを修復したのは7の方向性へ戻す舵取りをメタファーとして分かりやすく説明していると思うし、私なら出演時間を0秒にしたっていいじゃないと思うローズの配役もさりげなく出演させて物語に登場させている。なんか8で無くなったような気がした書物も重要アイテムとして9に出てくるし、カイロ・レンの葛藤や心理描写に関しては8からうまくつないで「ベン・ソロ」へと立ち直らせたとも思う。やりすぎちゃったフォースも舞台装置もうまく稼働させ、最期は歴代のジェダイ総出演(声のみ)でテンション上げ上げの方向へ持って行って
全員で悪の皇帝パルパティーンを倒すぜ!!
といわんばかりに勢いで乗り切ろうとしている展開も熱くて好きよ。音楽の挿入もよかったし。もっと欲を言えば最後のシーン今まで登場してきた12345678の惑星の人々の顔とか姿とか出してくれたらなーとは思ったけれど、時間無いからしゃーなし。駆け足気味でエンドを向かえたスター・ウォーズだけれど、スター・ウォーズだからこそこんな終わり方もありっちゃありよと笑えるような人が増えてくれればいいと思う。どうしても頭で良かった・良くなかったのカテゴライズをしがちだが、フォースとともにあれとはたまには頭空っぽにしてみ? ということでもあると私は思うしね。

最後に。ここまで読んでくれてありがとう。読んでくれた人は果たしているのだろうか。いないだろうか。ともあれ、私が感じたこの映画の感想は、一番最初に述べたとおり
【これは、決意の物語】

ジョーカーが「内に秘める悪を解き放て!」という意味ならば、スター・ウォーズ9 スカイウォーカーの夜明けは「貴方が正しいと思うことをやれ!」
強い決意と覚悟を決めれば、一見遠回りに見えても最後は自分の思い描く自分になれる。それは自分の出自がどうとか、自分の立場がどうとかは一切関係なし。
だから最後にレイが言ったでしょ?
「私の名前はレイ・スカイウォーカー」
彼女は自分自身でどう生きていくかを決めた。最後にこう在りたいと願った方向で自分を向かせた。スカイウォーカーと名乗ったのは、彼女がパルパティーンの血筋であったとしても、スカイウォーカーという名前が自分を正しい方向へと導いてくれると信じたから。
スカイウォーカーの夜明けとは、己の進む道を決めたレイの始まりの物語。

つまりはスター・ウォーズは面白いってことだね。
youcan

youcan