白眉ちゃん

暗くなるまで待っての白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

暗くなるまで待って(1967年製作の映画)
4.5
「暗闇の中でもただあなたの愛を信じている」


 テレンス・ヤング監督の『暗くなるまで待って』('67)が好きだ。映像演出(又は脚本)において、主人公に差し迫る危険を観客にだけ明示して緊張感を煽るものがある。観客は主人公に注意を喚起したいと思いながら画面を凝視する。しかし、どれだけ映像に没入しようとも画面を挟んで隔てられている事実を変えることはできない。その点において観客は"視ること"だけを許された目撃者にすぎない。

 『暗くなるまで待って』は視覚障害を持つ主人公の代わりに、観客に”視ること”を要求する。ケガで動くことができない主人公に視点を同期させるA・ヒッチコックの『裏窓』('54) に並ぶ目撃者の傑作サスペンス映画だと思う。盲目の女性の居る家に強盗が入る。息を殺す悪漢、忍び寄る魔の手、絶体絶命の窮地に置かれた女性。緊迫感のあるシチュエーションの中、私たち観客は固唾を飲んで見守ることしかできない。その緊張感こそ上質なサスペンスにほかならない。


 冒頭からスリリングな展開が続くものの物語の前提状況は少しややこしい。教科書的に修正するなら、美人局などの恐喝犯罪を生業としていたマイクとカリーノが麻薬組織のリーダー・ロートに誘き出されるところから始めて、薬物の運搬役の女の裏切りは2人に説明する形の回想でも良い。意味深長な会話が続くがオードリー・ヘップバーン演じるスージーが登場すると、彼女の存在感と置かれた不穏な状況からたちまちに画面に惹きつけられてしまう。

 夫サムのタバコの不始末によるボヤ騒ぎのエピソードは目の見えないスージーの恐怖心を鮮烈に印象付ける。これより強盗と対峙する彼女が如何に危機的状況であるのか、それに立ち向かうことがどれほど勇敢なのかを観客に感じ取らせる。そして同時に、サムの旧友に成りすましたマイクが信用を得て家に上がり込む口実ともなる。マイクとカーリノが計画に加わるまでが長かった分、ここの無駄のないスムーズなストーリーテリングは惚れ惚れする。

 フレデリック・ノットの同名戯曲を原案とする今作には、舞台ものらしいワン・シチュエーション映画の面もあり、壁際のパイプやブラインド、冷蔵庫にランプといった日常的なギミックを巧みに用いて戦う様子には『ホーム・アローン』('90)的な楽しさもある。一見して弱い立場にある側が工夫を凝らして外敵を撃退するのはジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』('68)然り、サム・ペキンパーの『わらの犬』('71)然り、籠城ものの基本である。逆に弱いと踏んで押し入ったら強かったパターンは『ドント・ブリーズ』('16)となるだろうか。『暗くなるまで待って』は障害を持つ女性が機転を利かせて立ち向かい活躍する作品であり、エンパワメント作品としても今日的な面白さがあると言える。


 だが個人的に一番好きなところは、スージーが愛を信じる人であるところだ。サムが家を出る朝、2人は些細なことで喧嘩をしてしまう。流石に言い過ぎたと謝るサムは「愛してる」と言葉を掛ける。「本当に?」と尋ね返すスージーには障害を抱える自分に少なくない劣等感を覚えている。ただ彼女は自分のことは自分でする意識を持っており、単に庇護される存在になるつもりはないようである。そして、その考えをサムも尊重し見守っている。強盗たちはサムが浮気をしていると騙り、スージーの不安を煽り立てる。表では強盗との対決を描きながら、裏では”目に映らない愛を信じられるか”を問い続けている。スージーが絶望的な窮地を乗り越えた頃、パトカーと共にサムが到着する。一命を取り留めたスージーを見つけた彼はすぐにでも駆け寄りたい気持ちを抑えて「ここまでおいで」と声をかける。この時の愛する人の声を聞いて駆け寄るスージーの姿は、彼女が愛の為に懸命に戦ったことを再度強調させる。そして、抱き留められた彼女の表情が映画のラスト・カットとして、私たちに確かな愛の存在を目撃させて終わっていく。

余談だが、少し前に上映されていたカナダ映画の『シー・フォー・ミー』('21) はこちらを現代アレンジしたものなのだろうか?
白眉ちゃん

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