このレビューはネタバレを含みます
つかれる男&つかれる女
どちらも曖昧でまわりくどくて、打算のために愛を口にしたりしなかったりする。いやそうしたくてもできないのか。
軽蔑し合う恋人同士
を我々は軽蔑する。
のだけれど、それさえも、もしかすると軽蔑されるべきことなのかもしれない。
商業映画への軽蔑、(商業)映画がそれでもギリシア人と芸術との関係性に憧れることへの軽蔑、つかれる男と女への軽蔑、解釈のない愛への軽蔑。そしてその末路。
つまりそれらは、即物的・直接的な、愛や映画への軽蔑である、といえると思う。
というのも、愛は、現実と想像との両方に宿っている。(実存と物語との?もしくは実存とイメージとの?)
けれどその現実と想像に宿る愛は、それを直接表現することができないから、他者からのそれや他者へのそれを直接見たり感じたりすることもまた不可能なのだった。
だからその現実と想像(あるいは実存と物語/実存とイメージ)とに宿る愛を解釈することによって、その解釈のうちに我々が相互に認識し信じることに足るような第二の愛を存在させようと試みることが必要なのだと、逆説的に提示している。
そしてまた、この愛という言葉は「映画」に置き換えて言うこともできる。
昨日みたアワミュージックもそういう試みの続きだったと言えるかもしれない。
全体的にわたしは自分が何を言ってるのかわかんないし、人には伝わらないだろう。けどこれも解釈のない愛、つまり第二の愛が存在しない状況、を逆説的に否定してるってことにしよ。