滑頭

ラ・ラ・ランドの滑頭のレビュー・感想・評価

ラ・ラ・ランド(2016年製作の映画)
4.0
2017/03/01 @品川プリンスシネマ

もんの凄えな。
カメラワークが頭おかしいし、照明とか衣装とかロケーションとかも懲りすぎだし、全編に渡って頑張り過ぎ。(誉めてる)
メイキングの方が面白いんじゃねぇかって思うくらいすごいもん作り上げてる。一切の妥協無く完璧に制御された美を最後まで根気よく作り上げたチャゼル監督並びにスタッフに拍手。これはアカデミー監督賞に値する。納得。

「ラ・ラ・ランド」ってのはロサンゼルスの愛称なんだそうですね。今回初めて知りました。LAね。この映画の都、エンターテイメントの街、そのものがこの映画の主人公のようなもので、街自体が歌って踊ってるかのような感じの演出で。全編に渡って映画的誇張、フィクションの力をもって、主人公2人の物語、この街の魅力というのが表現される。現実離れした映像だけどしかし、主人公2人にとっては、監督にとっては、こう見えてるんです。LAという街は。非常に多幸感に溢れてる。
エマ・ストーンもライアン・ゴズリングもこの上なく魅力的。

チャゼル監督は本作で長編映画2作目。それでこんな作品を作っちゃってアカデミー賞史上最多タイノミネートとは。まさしくアメリカンドリームの体現者だ。
前作『セッション』は若い芽を摘みたいオッサンと何が何でも成功したい厚かましい若者との間に生まれた狂気のセッションの様子を描いた作品だった。(本作におけるJ・K・シモンズは前作のフレッチャーと違いジャズに理解のないオッサンだったが、若い芽を摘むことに抵抗のない、頭が固くて圧迫感のあるオッサンという点ではフレッチャーと同じだった。)
『セッション』と『ラ・ラ・ランド』は一見すると、陰と陽、鬱と躁という感じで、正反対のような印象を受けるが、語られているテーマ自体は同じで、チャゼル監督がどんな人生を送ってきたのか、が少し分かった気がする。
子供の頃に無邪気に想い描いた、「表現者になりたい」という夢を、叶えることは現実には厳しく、人に認められるまでには想像を超えて時間がかかり、何度も挫折しそうになる。が、夢は叶う。それには少しの狂気と代償が必要。何かを得るには何かを失う必要がある。幸せの裏には常に少しばかり悲しみがある。しかし失ったものは無駄だったわけではなく、それも糧になっている。苦さを噛み締めながら、それでも前に進んでいこう。

追記
最後、5年後、主人公2人が成功した暁の物語は、寂しかった。
2人が別々の道を歩むことになったからってことじゃなくて、成功してしまったから。
観ている僕はまだ成功していないから。2時間、僕と近い立場の2人の姿を見ていたから、成功した2人の姿を見るのは、少し寂しかった。
「おい待ってくれよ、置いてかないでくれよ!」

追記
『セッション』と『ラ・ラ・ランド』の共通点もう一個。登場人物が少ない。
いや、『ラ・ラ・ランド』はエキストラ的な人たち入れたらものすごい多いけど、基本的には、主要な登場人物はミアとセブだけ。他は大して重要じゃないっていうか別にキャラクターを掘り下げられてない。
セブのお姉さんも一回出てきて終わり、ミアの家族もほとんど登場しない、主人公2人の家族についてもほとんど掘り下げられないってのは珍しいと思う。
これは『セッション』の時も思ったことで、デミアン・チャゼルの脚本は主要登場人物が少ないっていうのが特徴なんだと分かった。(思えば『10 クローバーフィールド・レーン』もそうだよな。)
これだけの尺、これだけの規模、これだけ多くのロケーションが登場する映画で、たった2人だけに焦点を絞った、こんなミニマルなストーリーだから、『セッション』の時よりもさらにそこが気になる。なんとなくそこんとこが噛み合ってないような気はする。
まあ、個人的に、キャストのアンサンブル演技が楽しめる映画が好みだから、っていうのもあるだろうけど、それもあってあんまりデミアン・チャゼル節がグッと来ない、という節もある。
テーマとかは好きだしものすごい映画だってことは確かなんだけどね〜。

追記
2回劇場で観て、改めて色々考えて、まあ悪い作品ではないけど全然好きじゃないな、という感じの結論に。
詳しくはブログに書きました。
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