ずっと見たかったラウル・ペック監督の作品。時折実際の映像も交えながら、ルワンダ内戦の惨禍とその後の平和構築過程を描いている。やはりどこか政治的である。単なる内戦として描き出すのではなく、フランスやアメリカなど先進国側の当時の対応を批判しているように見える。果たしてハビャリマナ機を撃墜したのは誰だったのか。ただ、途中字幕なしのキニヤルワンダだけのシーンがあってそこはムラコゼしかわからなかった。
映像を見て改めて、あの悲劇があくまで個別的経験であり、それを普遍化ないし一般化することは絶対的に不可能であるということを知らしめられる。この作品が事実を元に制作されたのか、あるいはラウル・ペックが創り出したフィクションであるのかはわからないけれども、そのようなことは些事であるように思う。あの時の暴力は他者の暴力をミメーシスした結果としてこの世界に現象してきたものに過ぎないからだ。その点において、私が彼らの個別的な痛みを真に理解することは絶対的にないし、また媒体を問わずどのような作品も彼らの個別的経験を他者に伝えることはできない。オノレがオーガスティンに対し、彼の妻がどのように亡くなったのかということを物語るシーンがあったが、そのシーンにおいてもの語りは行われなかった。私たち視聴者に対しては、ことばではなく映像でその悲劇を伝えようとしたのである。ここに、証言することの絶対的不可能性が如実に表れていた。個別の喪失経験や痛み、死というものをロゴスでは表現しきれない。ことばとはそれ自体が表現するものを規定してしまうことによって常にそれ以外のものを除外してしまう性質を持つ。意味を固定化してしまう。何を語ってもその通りであるが、何を語ってもその通りではないのだ。証言不可能性へのラウル・ペックのせめてもの抵抗が、欠如としての映像による表現だったのではないか。ことばによって限定されえず、なおかつ意味を固定しない映像を用いることによって喪失というものを表現しているように見えた。ことばによる説明を持たない映像は、私たち視聴者に想像力を呼び起こさせる。暴力に対する想像力を、だ。そこにこそ、「わたし」と「他者」が本源的に共約不可能であるにも関わらず、時に個別的な経験がある種の普遍性を持ちうることに対する倫理的な応答可能性への開かれがなされるように思う。ことばを排除することによって、もの語らない沈黙の映像にすることによって、普遍化を拒否しつつも、見たものに想像力を呼び起こす。ただ一方で、イメージがことばよりも強いものになっているこの現状をどのように解釈すればよいのか思い悩む。ことばの可能態とは如何なるものか。どこまで自体が持つ暴力性に抗えるか。
残照。雨。灰色。懶い。
また、作品の問いの一つに「言論の自由はどこまで認められるか」と言ったものも含まれていたように思う。RTLMでヘイト・スピーチを行い民衆を扇動した者を裁くことができるか議論がなされていた。曰く、「ラジオ(ことばとも訳せるかもしれない)は人を殺さない。人が人を殺すのだ。」は真か偽か。
まず言えることとしては、確かにラジオは直接的には殺さないが、ラジオを通してなされるヘイト・スピーチには多分に人を殺しうる構造的暴力としての潜勢力が含まれているということであろう。ルワンダ内戦におけるヘイト・スピーチは可能態と現実との間の差異を生じさせた原因であると言えるからだ。しかしながら、そこには明確な行為主体がいたわけではなく、また特定の個人を中傷するのでもなく、当時の社会構造の中に埋め込まれたものであることには注意しなければならないだろう。このヘイトがただツチに向けられたのではなく、フツを差別に同調させ、行動を促す効果があったことは言うまでもない。発言の一つひとつが深刻な問題をもたらすわけではないが、それらが社会構造に取り込まれることによって可能隊と現実とのギャップを生むのではないか。最近のヘイト・スピーチや失言などに対する報道は発言の一つひとつを切り取り、槍玉に挙げている嫌いがあるが、その様な報道は全体の構造というものを可視化する一助となるのであろうか。かつて、ベルギーが人工的に創り出した民族概念は結果として現代的レイシズムを引き起こした。ラジオでヘイト・スピーチを行っていたオノレには果たして差別意識があったのだろうか。確かに彼が行った行為というものは当然容認できるものではないが、彼の行動にその責任を求めて裁くことは間違っている気がする。彼は確かに直接的なことばの暴力、ヘイト・スピーチを行ったが、ヘイト・スピーチとはその様な直接的なものだけではないだろう。空気中に暴力が漂っていた当時の社会では、構造的に差別を扇動する様な表現全てがヘイト・スピーチなのではないか。この空気の中では、誰か特定の個人に責任を問うことはできない気がする。特定の個人に責任を問う場合、今度は「どの発言がヘイト・スピーチか」ということが問題の焦点となるからだ。ヘイトとそうでないものの境界はどこにあるのか。その線引きを誰が行うのか。RTLMでのヘイト・スピーチは国家の支持の下に行われた。ここから導き出せることは、特定の言論を法律で規制することには常に危険がつきまとうということではないか。その規制が今後どの様に使われるかわからないからだ。現在ある政府それ自体を信用する、その権威を絶対視することがあの悲劇につながったのではないだろうか。然るに個人の責任を追及するのではなく、暴力漂う空気そのものを変える試みをなすべきであると思う。よってルワンダ政府が現在行なっている二分的な分類にも賛成しかねる。ヘイト・スピーチは法律ではなく社会の倫理で規制するべきではないだろうか。法律によって規制されているからヘイトを行ってはいけないのではない。ヘイトが存在物に対する下劣な身振りであり、ただ美しくないから行ってはいけないのだ。法によるヘイト・スピーチの規制は、ことばをより軽くし、人間存在のモラルの崩壊を招くのではないだろうか。ヘイトを律し、空気中に存在してしまう暴力に対する身振りを改める当為は国家が定める法ではなく我々の常識であり、理性であり、倫理・美学だろう。