ルワンダ 流血の4月の作品情報・感想・評価

「ルワンダ 流血の4月」に投稿された感想・評価

horsetail

horsetailの感想・評価

3.2
ツチとフツの対立は、旧宗主国のベルギーが人工的に作り上げたものである。白人が植民地から離れたあとも、部族間の対立は解消されず、憎悪は維持された。根拠なく生まれた憎悪ですら捨て去ることがいかに難しいことであるか。
チャ

チャの感想・評価

4.0
事実はどんな物語よりも恐ろしいです
トラックの上に積まれた大量の死体、目の前で射殺された友人、皆殺しにされる宿舎の学生たち
何だこれ…
こんな事起きていいの?
たった25年前の出来事だなんて信じたくない
人間は残酷な生き物なんだと思い知らされた
なによりも、この100日間を傍観しているだけの白人たちが恐ろしい

このレビューはネタバレを含みます

これが事実なんて信じ難い、信じたくない。けどこれはたった20年前に起きた事。フツとツチ、なぜこんな事態になった?この出来事についてちゃんと知らなくちゃならない。聖マリア校での虐殺シーン、息を飲んだ。こんなに躊躇なく…。オーガスタンのような悲劇を背負った人が、実際どれくらいいたのだろう。
bambely

bambelyの感想・評価

-
この悲劇を完全に説明する言葉は存在するのだろうか

国連や米軍への批判が込められていたようだが、
一円もお金にならないから出動しない、ほぼ無法地帯の見知らぬ土地に自国の兵士を送り危険に晒せないのは、分からなくもない

「かわいそう」の一言で片づけて彼らの地獄は戦争が終結してからも続いている
Qちゃん

Qちゃんの感想・評価

4.0
大学時代に授業で観た。

1994年4月からルワンダで発生した、フツ族系政府とフツ族過激派による、ツチ族とフツ族穏健派に対する虐殺を、一部本物の映像を交えて克明に描いた作品。

ルワンダのジェノサイドについて学びたければコレお勧め。ヒットした「ホテルルワンダ」より現実に沿った内容。理解にはフツ族とツチ族の関係や歴史、ルワンダの政治における両族のポジションなど、多少は事前知識が必要。
マ

マの感想・評価

4.7
歴史的事実を知ってれば理解できるしすごく完成度高い気がした。授業でみました
映画としてのストーリー性もありつつちゃんと事実を観客に直視させる描写もあるし歴史の残酷さを思い知れた

フツとツチという民族的違いが植民地時代に宗主国に政治利用された背景によって独立後に対立が煽られ虐殺が突発的に起きる
自分がフツかツチかだけでなく、配偶者や子供、親戚、友人などとの関係に翻弄され沢山の死を目前にしながら生き延びた主人公のやり切れなさとか想像すると人間の集団心理などの怖さを感じてしまう…
文字

文字の感想・評価

4.9
 ずっと見たかったラウル・ペック監督の作品。時折実際の映像も交えながら、ルワンダ内戦の惨禍とその後の平和構築過程を描いている。やはりどこか政治的である。単なる内戦として描き出すのではなく、フランスやアメリカなど先進国側の当時の対応を批判しているように見える。果たしてハビャリマナ機を撃墜したのは誰だったのか。ただ、途中字幕なしのキニヤルワンダだけのシーンがあってそこはムラコゼしかわからなかった。
 映像を見て改めて、あの悲劇があくまで個別的経験であり、それを普遍化ないし一般化することは絶対的に不可能であるということを知らしめられる。この作品が事実を元に制作されたのか、あるいはラウル・ペックが創り出したフィクションであるのかはわからないけれども、そのようなことは些事であるように思う。あの時の暴力は他者の暴力をミメーシスした結果としてこの世界に現象してきたものに過ぎないからだ。その点において、私が彼らの個別的な痛みを真に理解することは絶対的にないし、また媒体を問わずどのような作品も彼らの個別的経験を他者に伝えることはできない。オノレがオーガスティンに対し、彼の妻がどのように亡くなったのかということを物語るシーンがあったが、そのシーンにおいてもの語りは行われなかった。私たち視聴者に対しては、ことばではなく映像でその悲劇を伝えようとしたのである。ここに、証言することの絶対的不可能性が如実に表れていた。個別の喪失経験や痛み、死というものをロゴスでは表現しきれない。ことばとはそれ自体が表現するものを規定してしまうことによって常にそれ以外のものを除外してしまう性質を持つ。意味を固定化してしまう。何を語ってもその通りであるが、何を語ってもその通りではないのだ。証言不可能性へのラウル・ペックのせめてもの抵抗が、欠如としての映像による表現だったのではないか。ことばによって限定されえず、なおかつ意味を固定しない映像を用いることによって喪失というものを表現しているように見えた。ことばによる説明を持たない映像は、私たち視聴者に想像力を呼び起こさせる。暴力に対する想像力を、だ。そこにこそ、「わたし」と「他者」が本源的に共約不可能であるにも関わらず、時に個別的な経験がある種の普遍性を持ちうることに対する倫理的な応答可能性への開かれがなされるように思う。ことばを排除することによって、もの語らない沈黙の映像にすることによって、普遍化を拒否しつつも、見たものに想像力を呼び起こす。ただ一方で、イメージがことばよりも強いものになっているこの現状をどのように解釈すればよいのか思い悩む。ことばの可能態とは如何なるものか。どこまで自体が持つ暴力性に抗えるか。

 残照。雨。灰色。懶い。

 また、作品の問いの一つに「言論の自由はどこまで認められるか」と言ったものも含まれていたように思う。RTLMでヘイト・スピーチを行い民衆を扇動した者を裁くことができるか議論がなされていた。曰く、「ラジオ(ことばとも訳せるかもしれない)は人を殺さない。人が人を殺すのだ。」は真か偽か。
 まず言えることとしては、確かにラジオは直接的には殺さないが、ラジオを通してなされるヘイト・スピーチには多分に人を殺しうる構造的暴力としての潜勢力が含まれているということであろう。ルワンダ内戦におけるヘイト・スピーチは可能態と現実との間の差異を生じさせた原因であると言えるからだ。しかしながら、そこには明確な行為主体がいたわけではなく、また特定の個人を中傷するのでもなく、当時の社会構造の中に埋め込まれたものであることには注意しなければならないだろう。このヘイトがただツチに向けられたのではなく、フツを差別に同調させ、行動を促す効果があったことは言うまでもない。発言の一つひとつが深刻な問題をもたらすわけではないが、それらが社会構造に取り込まれることによって可能隊と現実とのギャップを生むのではないか。最近のヘイト・スピーチや失言などに対する報道は発言の一つひとつを切り取り、槍玉に挙げている嫌いがあるが、その様な報道は全体の構造というものを可視化する一助となるのであろうか。かつて、ベルギーが人工的に創り出した民族概念は結果として現代的レイシズムを引き起こした。ラジオでヘイト・スピーチを行っていたオノレには果たして差別意識があったのだろうか。確かに彼が行った行為というものは当然容認できるものではないが、彼の行動にその責任を求めて裁くことは間違っている気がする。彼は確かに直接的なことばの暴力、ヘイト・スピーチを行ったが、ヘイト・スピーチとはその様な直接的なものだけではないだろう。空気中に暴力が漂っていた当時の社会では、構造的に差別を扇動する様な表現全てがヘイト・スピーチなのではないか。この空気の中では、誰か特定の個人に責任を問うことはできない気がする。特定の個人に責任を問う場合、今度は「どの発言がヘイト・スピーチか」ということが問題の焦点となるからだ。ヘイトとそうでないものの境界はどこにあるのか。その線引きを誰が行うのか。RTLMでのヘイト・スピーチは国家の支持の下に行われた。ここから導き出せることは、特定の言論を法律で規制することには常に危険がつきまとうということではないか。その規制が今後どの様に使われるかわからないからだ。現在ある政府それ自体を信用する、その権威を絶対視することがあの悲劇につながったのではないだろうか。然るに個人の責任を追及するのではなく、暴力漂う空気そのものを変える試みをなすべきであると思う。よってルワンダ政府が現在行なっている二分的な分類にも賛成しかねる。ヘイト・スピーチは法律ではなく社会の倫理で規制するべきではないだろうか。法律によって規制されているからヘイトを行ってはいけないのではない。ヘイトが存在物に対する下劣な身振りであり、ただ美しくないから行ってはいけないのだ。法によるヘイト・スピーチの規制は、ことばをより軽くし、人間存在のモラルの崩壊を招くのではないだろうか。ヘイトを律し、空気中に存在してしまう暴力に対する身振りを改める当為は国家が定める法ではなく我々の常識であり、理性であり、倫理・美学だろう。
hikari

hikariの感想・評価

3.4
教授がホテルルワンダより見るべきって言って授業で見たけど、どっちもどっちやんっ
こういう映画を見ると、悲惨で現実だけど現実じゃないみたいで、自分だったら、、って考えてもわからなくて何にもできないし、もどかしくなる。
Taiki

Taikiの感想・評価

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このレビューはネタバレを含みます

近現代アフリカの授業にて。
94年という近い過去のジェノサイドをどう捉えるかが大切になってくる。
記憶を記録にした作品。
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