私も含め広島出身の人は、必ず原爆について向き合う時間がというのが必然的に何度かある。例えば、おばあちゃんの昔話であったり、社会科見学が原爆ドームであったり、小学校に置いてある漫画がはだしのゲンであったり、黙祷の時間であったり。
広島を離れて、大人になるにつれて、そういった今まで必然的にあった習慣的な部分、当たり前に組み込まれていた部分がほぼ不自然ではない形でなくなってしまった。
今、大人になってこの映画が原爆についての再考するきっかけになった。あれからまだ100年も経っていないという事実への違和感を強く感じる。
ゆっくりと流れる幸せな時間が続けばいいのにと和んでいる次の瞬間に全てか恐怖に変わる。映画自体は、広島の原爆を主軸にしているわけではなく、呉の空襲と海軍を主軸として進んでいく。
片腕が吹っ飛んだら周りは心配しすぎてもいいくらいなのにそんなに心配されない、一緒に悲しむ事もないというのはそのまま当時のみんなもそうだったのか。
もしくは、片腕がないというだけならまだぜんぜん良い方。と思えてしまうような状況だからなのか。
常に死と隣り合わせな生活。当時の人は強い人だらけだと思った。命の小ささと大きさを感じさせられた。
のほほんとした主人公すずの仕草や声色が時の流れをゆっくりと感じさせてくれて心地よかった。死んでほしくないと思った。