Iri17

シン・エヴァンゲリオン劇場版のIri17のレビュー・感想・評価

5.0
エヴァシリーズ全体の総括です。noteに書いたことのコピペです。ネタバレ全開の長文です。

TVアニメ版の最終話のタイトルは「世界の中心でアイを叫んだけもの」。「世界の中心でアイを叫んだけもの」というタイトルは、アメリカのSF作家ハーラン・エリスンの短編小説『世界の中心で愛を叫んだけもの』をオマージュしたものです。この小説は全く意味がわからないのですが(ネットでも誰一人まともに理解してなかったので本当に意味のわからない小説)この小説に登場する大量殺人犯が「おれは世界中のみんなを愛してる!」と叫んだシーンから、シンジが精神世界で「愛」と「I(自我)」を叫ぶ話として引用しているのだと思います。

「世界の中心でアイを叫んだケモノ」では、シンジの心の世界が描かれます。シンジは自分自身のことが嫌いで、価値がないと信じています。自分がそう感じているので周囲も自分を嫌い、嘲笑い、価値がないと思っているに違いない。シンジの「自分なんかどうでもいいんだ」という卑下に対して、シンジの心の中のミサトは告げます。

失敗するのが怖いんでしょ?
人から嫌われるのが怖いんでしょ?
弱い自分を見るのが怖いんでしょ?

自分には価値がないと断じることで、世界や他人から逃げてきたことが明かされます。

人は常に一人だから、周りの意見に合わせて、群れて、寂しさを埋めるために身体を重ねる。人は一人では生きていけない弱い生き物だから人類はお互いを補完し合う必要があるという独白。

自分に価値がない世界、孤独な世界はシンジの意識が作り出した世界であり、世界は自分そのもの。他者がいるから自分が認識できる。「僕は僕だ。ただ、他の人たちが僕の心の形を作っているのも確かなんだ!」という気付きと共にシンジは「あり得たもう一つの世界」で目覚めます。

「ただ、お前は人に好かれることに慣れていないだけだ」
「だからそうやって人の顔色ばかりうかがう必要なんて、ないのよ」
「あんたバカぁ?あんたが一人で(みんなに嫌われてると)そう思い込んでるだけじゃないの」
「自分が嫌いな人は他人を好きに、信頼するようになれないわ」

ゲンドウやアスカ、ミサト、綾波の語りかけでシンジを形作っていた世界が壊れ始めます。「僕はここにいてもいいんだ!」とシンジが気付いた時にシンジの世界の他者が「おめでとう」と祝福し、シンジは世界を受け入れることができました。

哲学的で不明確なラストは多くの批判を呼びました。制作者の庵野秀明いわく、「アニメに依存しているファンに嫌気がさして、バケツで水をかけてやるつもりで作った(水の半分は自分にかけるつもりで)」と述べています。つまり「現実に帰れ」というメッセージだったわけです。放送当時の90年代はバブルが崩壊し、現在まで続く長い停滞の時代の幕開けでした。ポストモダンが進行し、多くの若者が実存的問題を抱えていました。喪失した大きな物語の代替となるものを希求し、オウム真理教のようなカルトにのめり込み者や「引きこもり」が社会問題になったのもこの時期でした。庵野は近代日本がもっとも閉塞的だった80年代後半から90年代中盤という時代に肥大化した自我を押し込められた若者を見事に描き切ったと言えます。

しかし、エヴァンゲリオンを消費することに熱中し、神話になることを熱望した少年たちには「現実に帰れ」というメッセージは伝わらず、TV版のエヴァンゲリオンの結末はめちゃくちゃに批判されてしまいました。

仕方がないので庵野は『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を製作します。この映画では、全人類から自己と他者の区別が無くなり、全ての人間の魂を一つの生命体(第二使徒リリス)に集約させて高次の生命体へと進化すること、ゼーレによる人類補完計画で、人類は神になりました。

庵野はTV版で「現実に帰れ」というメッセージを送ったのに、そのメッセージが若者たちに拒否されてしまったので、旧劇場版を製作し、
「はいはい、現実に帰るのが嫌なんですね。自己と他者の存在を認めて現実に向き合いたくないんですね。じゃあお望み通りみんなで一つになりましょうね。みんなで集まって神になりました〜 めでたしめでたし」という一種投げやりな結末を与えました。

廃人と化したアスカに精子をぶっかけるシンジや死んでしまった妻に会うために綾波レイという存在を生み出す掟ゲンドウなど、身勝手な人間を描いた後に実写で映画館の映像を映し出します。観客自身に「このキモいクソたちはお前らだよ」と分からせるとてもストレートな演出です。ラストには多くの若者たちが自分を投影していたシンジというキャラクターに対し、アスカが「気持ち悪い」と吐き捨てます。現実と他者を拒絶したシンジがアスカの首を絞めるという残酷なラストでした。

ただ、庵野はシンジに他者と向き合うことは苦しいけれども、それでも他者が存在する世界を選択させることで、若者たちの「在るべき世界の選択」を後回しにしたと捉えられます。シンジのこの選択によって「結論」を先延ばしにし、新たに生まれた世界が「新劇場版」の世界だったのです。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』での渚カヲルの「定められた円環の物語の中で、演じることを永遠に繰り返さなければならない」という言葉から、エヴァンゲリオンの世界は永劫回帰的に何度も何度も繰り返していると考えられます。そのことに気づいているのは「生命の書」(新約聖書ヨハネの黙示録にある天国で永遠の命を手に入れるものが示されている書物)に名を連ねている渚カヲルただ一人だったわけです。

渚カヲルはエヴァの物語の「作者」として、主人公シンジが救済される(前に進む)まで繰り返し繰り返し、物語を書き続けなければならなかった、「生命の書」にシンジの名が書かれるまで円環の物語の中で演じ続ける宿命を負わされた存在でした。

庵野はTVアニメと旧劇場版の世界のシンジに「現実に向き合えない若者」を投影しました。つまり日本の若者(もはやおじさんたち)がポストモダンを受け入れられない限り、消費社会の中で円環の物語を書き続ける宿命を背負わされた存在が庵野=渚カヲルと解釈できます。エヴァンゲリオンの物語は日本が大人になれない限り円環の物語から解放されることはなく、26年にも亘り永劫回帰の柩の中に囚われ続けていました。

かつて庵野が自己の悩みを投影して生み出したシンジを幸せへと導くことが渚カヲル=作者としての庵野の宿命になってしまったのです。恐らくTVアニメ放送中に熱狂してフィクションと一体化していく若者を見て、シンジという庵野と渚カヲルという庵野が分離したのだと推測できます。

TV版最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」のラストで、カヲルだけが「おめでとう」と叫ぶ集団の輪に存在しなかったことは、「カヲル=作者」としての庵野が「円環の物語の中でシンジ=主人公としての庵野=若者に代表される近代日本」が「幸せな選択」をしていないことを知っていたからでしょう。

カヲルはシンジに「僕は君だ」と述べているようにカヲルとシンジは同質にして対極の存在です。完璧なカヲルと弱いシンジ(作者としての庵野と主人公としての庵野)完璧であるが故に孤独であり、永遠に一人で円環の物語を書き続けなけれならなかったカヲルと前に進めない弱い存在だから孤独だったシンジ。カヲルは何度も何度もシンジを前に進ませようとして、「作者の死」を体験してきました。

「作者の死」はフランスの哲学者ロラン・バルトが提唱した考えです。
近代に生まれた自我によって物語の解釈や意図をコントロールする作品に対する神としての力を失い「作者は死」を迎えるという論理です。作者は死に、読者が物語を支配します。

庵野はTV版・旧劇場版の結末が「読者」に許されず、新劇場版を創造しました。作者としての庵野であるカヲルは時には握りつぶされ、時には爆殺され、失敗してきました。いずれもシンジ(物語の主人公であり、読者である若者たちを投影した存在)の行動によって殺されたのです。それでもカヲルは「読者」の暴走した自我に向き合い救済するために「今度こそ君だけは幸せにしてみせるよ」と、シンジの幸福を望み続けてきたのです。自分の片割れであるシンジの幸福はカヲル自身の幸福にもなるからです。

最終的にカヲルはシンジを「幸せにしてみせる」のではなく、シンジが自ら選んだ幸せ「エヴァのない世界=苦しいけれど自分と他人がいる世界」を知り、自分の過ちに気づきました。シンジを前に進ませようとするのではなく、シンジが「ここにいていいんだ」と自らの意志で選び取る幸福がシンジもカヲルも解放される道でした。


そもそもエヴァンゲリオンとは何だったのかという問題を考えたときに、やはり聖書を切り離すことはできません。

聖書において、使徒はイエス・キリストの12人の弟子のことで、神に遣わされた者を意味するします。エヴァンゲリオンに登場する使徒も聖書との関連があります。第1使徒のアダムは旧約聖書の最初の人類の一人で、第2使徒のリリスはアダムの最初の妻です。リリスは悪魔の祖とも言われます。第3使徒から第16使徒までは天使の名前です。使徒の名前につく「〜エル」という名前は、セム語派の言語で「神」を意味します。第17使徒のタブリスは天使とも悪魔とも言える存在として語られており、第18使徒のリリンはリリスが魔王サタンとの間に設けた子供と言われています。作中でリリンは人類を指します。

ゼーレの「人類補完計画」のシナリオが書いてあるとされる死界文書は、ヨルダン川西岸にある洞窟内で発見された文献を基に作られた設定です。旧約聖書の写本など約2000年前の文書であり、2021年に入っても新しいものが発見されるなど考古学的な世紀の大発見です。もちろん人類補完計画などは書かれていませんが、2000年前の旧約聖書の写本が発見されたことは事実です。

このようにエヴァンゲリオンは聖書やキリスト教から強い影響を受けています。このことからエヴァンゲリオンを考えてみます。
エヴァは最初の人類アダムの妻イヴのヘブライ語表記です。エヴァパイロットは全員母親のいない子供というルールから考えると、エヴァとは母親のメタファーと考えるのが妥当でしょう。エヴァ内部がL.C.L.という呼吸可能な液体で満たされているのは羊水の記号であり、ケーブルのような形状でエヴァとパイロットが繋がるのは臍の緒を表しているでしょう。
そう考えると、エヴァンゲリオンの物語は典型的な胎内回帰の物語としての文脈で読み解くことが妥当です。

胎内回帰とは、生物が母親の体に中に戻ろうとする本能のことです。この胎内回帰を利用して描かれる物語の構造に貴種流離譚があります。貴種流離譚は多くの神話や民話に見られる物語構造です。

高い身分にある人間が、何らかの理由で故郷を追われ、低い身分のものに育てられ、苦難の旅を経て、自らの出自を知り英雄(神話)となる。

という一連の物語構造が貴種流離譚です。

例えばギリシア神話は貴種流離譚の繰り返しです。
全宇宙を統べるクロノスは息子にその座を奪われることを恐れ、ハデスやポセイドンを飲み込んでしまいます。しかしゼウスだけは母親によってクレタ島に密かに送られて、ヤギの乳を飲み育ち、大きくなってクロノスを倒し、自らが全知全能の神になります。
ゼウスの子ヘラクレスも同じように神の国オリンポスを追い出されてしまいますが、数々の苦難を経て、死後に神になります。

ブリテン島のアーサー王伝説も同じです。ペンドラゴン王は敵国コーンウォールのお姫様に恋をし、魔術師マーリンの力でコーンウォールの王様に変身してお姫様に赤ん坊を身籠らせます。生まれた子アーサーはその後孤児として育てられますが、聖剣エクスカリバーを引き抜き、戦争に勝利し、ブリタニアの王になります。

日本神話のスサノオノミコトは、天照大神が岩に隠れてしまった責任を取らされて、高天原から追放されますが、八岐大蛇を倒し、根の国の支配者になります。また日本神話にはヒルコという不具の神がいますが、ヒルコの物語も貴種流離譚です。このヒルコは庵野の2016年の映画『シン・ゴジラ』の基になっています。

このように洋の東西を問わず、貴種流離譚は至る所に存在するのです。新約聖書もかぐや姫もラピュタもハリーポッターもスターウォーズもライオンキングもシンデレラもドラゴンボールも、細かい違いはあれど、高貴な子、運命の子、特殊な力を持つ子が低俗な世界に送られ、そこで成長して高貴な身分に戻る、または仇敵を討つというストーリー構造は一致しているのです。

なぜ神話から現代のエンタメまで広くこの物語生成装置が機能しているかと言うと、貴種流離譚は人類共通の胎内回帰の本能に依拠しているからです。人間の本能では、母親の胎内=神の国・高貴な身分・特殊な力と同義なのです。

エヴァの話に戻しましょう。
エヴァも、シンジという「生命の書」に名前を書かれるべき救世主が自我と他者にもがき苦しみんがら、最終的に皆を救済し神話になるという話です(最終的に母・ユイによって現実に送り出され、神話にはなりませんでしたが)。

そして貴種流離譚の源流である胎内回帰の視点で考えると、エヴァンゲリオンの物語は母の不在という問題を抱えた少年少女が母親の胎内へと回帰し、そこでもがきながら一人の個人として「私」を獲得するまでの物語と言えます。「私」を獲得するというのは、高貴な身分じゃなくても、特殊な力がなくても、「僕は僕のままここにいていいんだ」ということです。だからシンジがテレビ版の最終話と新劇場版シリーズのラストで「エヴァのいない世界」の幸福を望む選択をしたのは当然の選択と言えます。

なぜ人は母親の胎内を離れなければならないのでしょうか。その方が楽だし、自分が守られている特別な存在だと思えるのに。

精神分析学者フロイトは人間の成長段階として5つの段階を想定しています。その中の第一段階は口唇期と言われ、母乳を飲むことに快感を覚える時期です。フランスの哲学者メルロ=ポンティの『知覚の現象学』によれば、生まれたばかりの赤ちゃんは自己と他者の区別をつけることができず、母親を自分の一部と認識しているそうです。母親に抱かれ、母乳を飲むという行為を通して世界を知り、乳離れによって自己と他者の違いを認識して次の成長段階へと進んでいくのです。

つまり母離れをすることは成長して大人になることです。人は成長するうえで母が必要で、また母から離れることも必要です。

シンジが母親の愛を認識する間もなく、母・ユイが不在だったことはシンジが他者を受け入れられない理由の最たるものだったと考えられます。エヴァのパイロットとエヴァのコアが母子関係にある必要があるのも胎内回帰の物語と考えれば自然です。
シンエヴァンゲリオンでシンジがエヴァ初号機=母親から射出され、実写の駅に飛び出ていくラストは、シンジが遂に母親の呪縛から解き放たれ大人になっていたことを意味し、同時に実写の駅が映し出されることで「現実に帰った」ことを意味します。26年に亘る円環の物語が遂に大円団を迎えたのです。

母親の呪縛から解き放たれたのはシンジだけではありません。シンジが他者に向かい合うことを決意したことで、円環の物語の「作者」としての宿命からカヲル=庵野自身も解放され、ケンスケとの絆によってアスカも解放され、綾波も一人の人間としての「私」を獲得し、ゲンドウもシンジと向き合うことでユイと再び一緒になり救われました。さらには、当時の若者たちが現実と他者を拒絶したことで、砂浜に打ち捨てられた旧劇場版のアスカすらも解放してしまいました。極め付けは「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という言葉と共に「私」を獲得できず、現実に向き合ってこなかった全ての観客たちすらも解放してしまいました。まさにエヴァンゲリオンの呪縛に囚われた全ての人たちを解放してしまったことになります。恐らくこんな映画は古今東西の映画の歴史上ひとつもありません。

エヴァンゲリオンが母親の象徴であるならば、使徒は何を意味するのでしょうか?

使徒は父親の象徴でしょう。もっと噛み砕けば、意図がわからない他者を表す記号です。

物語開始当初では目的も分からず、意思疎通も不可能な怪物として使徒は描かれます。人類補完計画によって自己と他者の区別がない世界=現実に向き合わない世界を希求する人類を妨害し、エヴァ=母とその胎内にいるパイロット=子供たちを汚染しようとする存在です。上手くコミュニケーションが取れない存在であり、ゼーレの人類補完計画を妨害しようとする様子はシンジにとっての父・ゲンドウと一致します。使徒とゲンドウは物語の中のシニフィアン(記号表現)としては多くの部分で共通します。

ここで改めてフロイトの理論を引用して考えましょう。
フロイトの発表した理論の中にエディプスコンプレックスというものがあります。エディプスコンプレックスとは男児が無意識下に母親に対して性的欲求を抱き、父親に対して殺意を抱いているという理論です。
前述したように赤ちゃんは母親と自分を同一の存在として意識しています。成長過程で母親と自己を分離していくものの、その過程で強い不安を覚え、同一の存在になりたいという願望を抱くのです。よく小さい子供が「将来お母さんと結婚する!」と言うのはその現れです。もちろん結婚の意味も分からないし、性知識などないのですが、同一であり続けたいと願うのです。
母親と同一になりたいと願う時に邪魔な存在は父親です。父親は母親と同一になりたいと願う自分の立場を脅かす存在ですし、実際に父親はペニスを使って母親と同一になることが可能であり、セックスなど知らなくても本能的に子供は父親を拒絶し、排除したいという欲求を持っています。成長過程でこのエディプスコンプレックスは抑圧されていき、表に出なくなるのですが、父親の愛も母親の愛も知らないシンジにとっては大きな問題です。


シンジは父親に反抗し、最終的に母=エヴァを巡ってまさに殺し合いを演じます。まさにエディプスコンプレックスでいう、母を渡さないための父殺しです。


初号機とゲンドウの乗るエヴァ13号機の外見が酷似していることからも分かるように、シンジとゲンドウは似た者同士。ゲンドウも他者を拒絶して自分の内面に閉じこもって生きてきた人間でした。ユイと出会ってゲンドウは変われたのに、そのユイが亡くなってしまったのでゲンドウはユイに会うために行動します。ゲンドウにとってのユイは母親的な存在だったと言えます。ゲンドウもエディプスコンプレックスこじらせ人間だったわけです。
シンジが「息子が父親にしてやれるのは、肩をたたくか殺してやることだけよ」と言う言葉の通りにゲンドウは殺されるわけですが、自分の殻に閉じこもって父親になれなかったゲンドウが、息子に殺されることでようやく父親になることができました。そしてシンジは肩を叩いて電車の外にゲンドウを送り出すことで、ゲンドウは救済されたのです。

使徒の話に戻しましょう。
使徒が父親の象徴であるというのは第一使徒の名前がアダムということからも判断できます。アダムは最初の人類であり、まさに父親。そして第一使徒アダムは第3から第17使徒の源です。そしてこのアダムの魂は渚カヲルとして円環の物語の中で繰り返し再生されています。カヲルはシンジの片割れであると共に弱い父性ゲンドウの片割れでもあると思います。
弱い父ゲンドウがシンジの言葉で弱さを認め解放され、完璧な父であり、物語の作者=父であるカヲルもシンジによって円環の物語から解放されます。カヲルは自らが望む幸福、神話でのアダムの妻である第2使徒リリスの子リリン(人類)の加持とスイカ畑での幸福を見出します。さらにラストの駅ではリリスの魂を受け継いだ綾波と会話をしています。カヲルは完全に解放され幸福を見出したことが分かります。

20年以上敵として描いてきた使徒すらも救済してしまったのですね。

シンジが皆を救済したキリストであり、マリがその側に寄り添い続けるマグダラのマリアだと解釈すると、冬月が言ったイスカリオテのマリアという言葉も理解できます。神になったゲンドウたちを裏切ったイスカリオテ(キリストを売ったイスカリオテのユダ)であり、キリストであるシンジの側に寄り添い続けたマグダラのマリア、「イスカリオテのマリア」がマリだったのです。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』は、シンジ、アスカ、綾波、カヲル、ゲンドウ、人類、使徒、90年代の若者たちすらも解放、救済し完結しました。
TV版、旧劇場版でエヴァが完結しなかったのは、当時の若者たちが「現実に帰る」ことを拒否したことが理由でした。だからエヴァは完結することが許されず四半世紀にわたって円環の物語を続けてきました。

つまり日本が「私」を獲得し「近代」に向き合わない限り、エヴァからの解放はあり得ないのです。

エヴァを製作している期間の庵野の作品に着目すべき作品が2つあります。2000年公開の実写映画『式日』と2016年の『シン・ゴジラ』です。

『式日』は旧劇場版エヴァンゲリオン製作の果てに精神が壊れてしまった庵野に対し、ジブリの鈴木敏夫Pや徳間康快社長が提案、後押しして製作された映画です。映画監督の岩井俊二が庵野本人をイメージした役で出演した難解なアート映画であり、庵野自身も「興行的に儲からない。赤字になる。」と言って製作を固辞しようとしましたが、それでも是非とジブリが後押しした製作されたという経緯がある作品です。


この『式日』は構成的にはほぼエヴァです。
主人公の「カントク」は庵野自身が想定されており、大人になれなかったシンジという感じ。そしてもう一人の主人公の「彼女」は母親に捨てられて深い傷を負っています。この「彼女」といキャラクターは多くのシーンで赤いものを身につけており、アスカをイメージしていると思われます。

『式日』は終始TV版エヴァの最終話を見せられているような作品ですが、「私」を獲得しようとしてもがくアスカをシンジが優しく包み込むような映画ですので、シンジはアスカと結ばれなきゃダメだろ!などと憤っているオタクはもうこっちを見ればいいと思います。

エヴァに乗ることが胎内回帰であると先ほど述べましたが、こちらはバスタブに入ることを胎内回帰としてイメージしていると思います。さらにシンエヴァで描かれた宇部新川駅付近、JR宇部線の線路がこの作品でも度々登場します。道が分かれる線路を描くことで、庵野の人生をかけたテーマ「現実に帰れ」問題を表現しています。

アニメーションは余計なものは排除でき、自分の好きなものだけで構成できる神になれます。ただ実写の場合は余分なものが画面に映り込む可能性がありますし、俳優が自分のイメージ通りの演技をするかは分かりません。もちろんアニメ製作も多くのスタッフとの共同作業にはなりますが、アニメーションの世界の内部はある意味では自分だけの世界です。しかし実写は他者のいる世界です。庵野個人はこの『式日』という映画を撮ることで、他者のいる世界を受け入れられたと言えます。しかし、この作品は「100人に1人がいいなと思ってくれればいい」と思って撮った極めて個人的な作品です。庵野が社会に向けて製作した実写映画は2016年の『シン・ゴジラ』でした。

『シン・ゴジラ』は庵野史上最も大規模な作品であり、日本映画史においてもかつてない規模のない映画でした。ただ金をかけただけでなく、ハリウッドでも使われる高性能シネマカメラからiPhone、GoProに至るあらゆるカメラを使用し、編集は映画編集でよく使われるAvidではなく、YouTuberやテレビディレクターなどが使うことの多い、使い勝手のいいPremiereという編集ソフトで行われるなど、あらゆる意味で前例のない映画でした。

この『シン・ゴジラ』もほぼエヴァでした。

エヴァを前述の通り、胎内回帰、父殺し、自我の発露と「私」の獲得のための物語と考えたときに、『シン・ゴジラ』は本編開始わずか1分でエヴァと同じ話であることを宣言するかのようなシーンがあります。

ゴジラを生み出したことが示唆される牧博士の船内に、ほんの一瞬宮沢賢治の『春と修羅』の本が映ります。『春と修羅』は自我の芽生えと葛藤を描いた詩集です。賢治の妹が亡くなった際に書かれた詩であり、賢治が自らの自我を鎮めるために描いたものです。人間は自然の一部に過ぎないことを分かっていながら、妹の死を自然の摂理として受け入れられない自らの自我との葛藤、これが『春と修羅』なのです。

有名な一節が以下の一節です。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

「私」は特別な存在ではなく、流れては消える照明の電流と同じだということ。自分の存在は自然の一部に過ぎないのに、自我が芽生えているが故に苦しいという近代に移り変わる時代の賢治の苦しさえを表現した一節です。

これを『シン・ゴジラ』に当てはめてみると、

ゴジラという現象は背中から青い照明のような光線を出す(あらゆる抑圧されて透明になった自我の幽霊たちの複合体)

ということになります。

牧博士は、妻を放射能汚染で亡くしたことで、人類と国家に復讐するために放射能の怪物であるゴジラを利用しました。これはエヴァのコアに妻の魂を取り込まれたので、エヴァを使って人類を巻き込んだ人類補完計画を実行に移そうとするゲンドウの行動に酷似しています。

ゴジラは意思疎通が不可能な他者の象徴=使徒であり、抑圧された自我の象徴=エヴァパイロットです。ラストシーンでゴジラの尻尾から突出し凍結された人型の謎の生命体はまさに抑圧された自我です。

エヴァQでシンジの暴走した自我がフォースインパクトを引き起こしたように、ゴジラの尻尾からは人型の生命体というインパクトを引き起こそうとしていたのです。人類は直前でその自我を凍結しましたが、この自我と向き合っていかなければならないという形で映画は終わり、回答をシンエヴァに先延ばしにしました。

ゴジラが他者と自我の複合体であるならば、ゴジラの行動目的はなんだったのでしょうか。それはエディプスコンプレックスだと考えられます。

庵野は製作にあたり、製作・配給を主導した東宝からあるルールを課されていたそうです。

①近隣諸国の国際情勢については劇中での明言を避ける

②皇室に関しては一切触れてはならない

①に関しては要望であり、②に関しては厳命であったそうです。このルールの②は実はかなり大きな意味があります。

天皇について言及してはいけない。これは日本社会の暗黙のルールです。もしタレントが天皇を批判したり、報道番組が天皇に最高敬語を使わなかったら、コテンパンに批判され下手すれば命を狙われたり、テロの標的になる可能性があります。恐らく発言者は表舞台からの干されるのは間違いないでしょう。実際に過去に天皇を批判したり、風刺した出版社やタレントが右翼団体から脅迫や攻撃にあうことはしばしばありました。本来民主主義国家である日本では、天皇に対する批判や風刺は自由に行われ、最高敬語を使う必要もないはずです。これは菊タブーと呼ばれています。

庵野はこの言われなき厳命に対して「はいそうですか」と従うことを拒否しました。表向きは天皇には一切言及されず、内閣の大臣が全員殺された内閣総辞職ビームの際も、天皇など存在すらしていないかのように扱われます。
最終的にゴジラは東京駅丸の内口で動きを止めますが、その目と鼻の先は皇居であり、ゴジラが歩みを止めなかったら皇居を踏み潰していたのではないでしょうか。

ゴジラが蒲田に上陸した際の形態、通称「蒲田くん」は手がなく、上陸後血を吐き、海に引き返すいわゆる「奇形」でした。

これを見て連想させられるのが、日本神話において天皇の先祖と呼ばれるイザナギノミコトとイザナミノミコトの間に最初に生まれたとされる水蛭子(ヒルコ)と呼ばれる神です。

このヒルコはイザナギとイザナミの間に不具の子として生まれます。具体的な特徴は書かれていないものの手足が未発達であったという説もあります。このヒルコは不具であったために小舟に乗せて海に流したと言います。

この小舟のイメージは冒頭の牧博士の小型船のイメージとも共通します。

多くの神話では、流された神の子は拾われて育てられ、父殺しを行ったり、神になったりするまでが描かれていてることが多いですが、ヒルコに関しては流されてそれっきりなのです。貴種流離譚の中盤以降がキレイに欠落しています。

さらにはイザナギとイザナミの子供たち、アマテラス、ツクヨミ、スサノオは三貴神として祀られますが、最初に生まれたヒルコと、同じく不具としてヒルコの次に生まれたアワシマは子供としてカウントしないという酷い扱いをされています。三貴神と比べるとヒルコとアワシマを祀る神社は全国でも少数しかありません。

手がなく自立歩行できない蒲田くんは、蒲田に上陸し、第一京浜を北上し品川区に入ると、二足歩行になり完全体に近づいていきます。そして皇居のある丸の内方面へと進んでいきます。

これを日本神話の欠落したヒルコのエピソードに当てはめるなら、流されたヒルコが成長して父親殺しに戻ってきたと捉えることができるでしょう。ゼウスが父クロノスを殺しに戻ってきたようにです。

そしてヒルコにとっての父はイザナギであり、ゴジラにとっての父とはイザナギ・イザナミの子孫とされる天皇であると考えることができます。

天皇は日本国の象徴、まさに父親的存在です。ゴジラはエディプスコンプレックスを抱え、父殺しを行おうとしていたのではないでしょうか。日本社会が自我に向き合い「私」を獲得するためには、天皇の存在に向き合う必要がありました。少なくとも庵野はそう考えたのだと思います。日本が天皇制を断念するにせよ、適切な形にするにせよ、向き合わなければ日本は「私」を獲得することはできません。

ゴジラは皇居の目と鼻の先、東京駅丸の内駅舎で歩みを止めます。
天皇という大きくて温かい存在に守られて、自我に向き合うことを放棄した日本はこれからどうしていくのか、そう言われているように感じました。

庵野は天皇を描くことなく、天皇を描いてみせたということも特筆すべきでしょう。

「父にありがとう。母にさようなら。」と言える日が来るのか
島国であり、周囲との交流が少なかった日本は、明治に初めて「私」の必要性に迫られ、欧米列強の「私」を代替することで補ってきましたが、それも敗戦で失い、高度経済成長期の「日本スゴイ!」という「私」もバブル崩壊によって失われました。庵野はエヴァ、式日、ゴジラを通して自分だけでなく、日本の国としての「私」の獲得を目指していました。

『シン・ゴジラ』で社会に現実に向き合うことを再度提示した庵野は、シンエヴァで円環の物語に終止符を打ち、作者の役割から自らを解放しました。しかし、現時点で日本は「私」を獲得して他者と向き合っているわけではないのです。このまま「現実に帰る」ことを拒否し続けるのか、真(シン)にエヴァンゲリオン(現実から守ってくれる母)のいない世界に向き合い、「父にありがとう。母にさようなら。」と言えるようになるのかは僕たち次第なのだと思います。

まとめるならば

TV版エヴァ→現実の世界にいてもいいんだよ。現実に帰れ

旧劇場版→現実に向き合えって言ってんだろ、気持ち悪いな

式日→庵野自身が他者を受け入れる
シン・ゴジラ→(社会全体に対して)自己に、他者に、向き合え

新劇場版→全員救済。現実の僕たちの選択は僕たちに委ねられる

シン・ウルトラマン→???

シン・仮面ライダー→???

庵野が企画、脚本を務める予定の『シン・ウルトラマン』と監督予定の『シン・仮面ライダー』で、自我に対する新たな物語を始めるのか、それとも全く新しい問題に取り組むかは分かりません。しかしエヴァンゲリオンの物語はこれで完結と見るのが妥当でしょう。これ以上ない完璧な終わり方で、映画史上他に類を見ない完璧な終劇でした。
Iri17

Iri17