hasse

早すぎる、遅すぎる、のhasseのレビュー・感想・評価

早すぎる、遅すぎる、(1982年製作の映画)
4.9
演出5
演技-
脚本5
撮影5
照明4
音楽-
音響5
インスピレーション5
好み5

ストローブ=ユイレ監督の長編映画『早すぎる、遅すぎる』は、二つの既存のテクストを基にした、二部構成となっている。一つ目のテクストは、エルゲルスのカウツキー宛て書簡。18世紀末フランスにおける貧困の状況が綴られている。二つ目はマフムード・フセインの『エジプトにおける階級闘争』。20世紀のエジプトの農民蜂起、革命に関する著作。

これらのテクストがナレーションによって朗読されるが、映像はそのテクストの内容をビジュアル化したものでは全くない。テクストは農村の窮状や、革命に至る流れの「歴史」を語るが、映像は、農村の遠景が延々と映し出されるだけだ。
本来の映画では当たり前に行われる、言葉と映像、テクストとイメージの融合による物語の生成が、全くもって行われない。テクストが読み上げられる間、カメラはゆっくりと農村の風景をパンし、ある瞬間に停止する。そしてテクストが終わってもカメラは停止したまま、時に数分もの間、風景を映しつづけている。この時間は悠久に続くのか、と思いきや、出し抜けに次のショットに移行する。

私はこの映画を見て混乱したが、それは裏を返せば、映画の「テクストとイメージの融合によって生成する、物語という制度」に、いかに馴致させられているか、ということだと思う。
普通、演者の台詞やナレーションと映像は時間的空間的にシンクロして我々のまえに現前するからこそ、我々はそれらの総体を物語と見なしている。だが、それが本当に「普通」なのか? それはリュミエール兄弟からはじまる映画の歴史の中でマジョリティ化した、映画作りの制度でしかないのではないか?

そのテーマは決してストローブ=ユイレ固有のものではない。1940年代、それまで映画のメジャーシーンを牛耳っていた、ハリウッドやフランスといった映画先進国のウェルメイドな作品群に対してネオリレアリズモが楔を打ち込んだ。現実の生活の一部を切り取ったかのようなリアリティーある断片的なショットを積み重ねるという手法は、それまでの「物語」作りに反していたし、1950年代後半からのフランスでのヌーヴェル・ヴァーグは「反体制」の指針をさらに先鋭化させ、世界各地に波及した。
1981年のこの作品はそのウェーブの極北に位置付けられると言うこともできるかもしれない。テクストとイメージの合体によってではなく、テクストとイメージの差異、断絶によって本来とは全く別の物語を生産すること、脱中心化、そういった諸々の要素はポストモダニズム的でもある。

だが、別の見方もできる。この映画を映像の記録、記録映画として見たとき、それは映画史上最もプリミティブな作品なのではないか?
記録映画の元祖リュミエール兄弟の『工場の出口』や『列車の到着』ですら、その映像のカットや構図、被写体の選定は作為的だ。ただ目の前の風景にカメラを回すだけではなく、ある感情や想念を興させようという、観客に対するアプローチが見える。
それに対してこの映画のショットの大半は、限りなく「ただ映しているだけ」に近い。そのショットは、作り手→観衆への思いが漂白された純粋な映像でしかない、意思を持たないショットなのだ。本来、直線的時間で捉えられるはずの革命の歴史に関するナレーションは風景のぶつぎりのショットと共に並列された挙げ句、只管に遅延する。この点においては「テクストがイメージに振り回されている」ように見えて面白い。一方、「イメージはテクストに支配されている」ようにも取れる。なぜなら純粋な風景の映像は、テクストのボイスオーバーによって限定的な意味をもたらされる羽目になる。このテクストとイメージの関係性、せめぎあい、戯れこそが面白い。

物語的にもショット的にも中心点を持たない(風景のパンショットだけでなく、車の冒頭の円環運動と、後半の直線運動も。一部、「農民は黙っていない」の文字のショットや実際のエジプトの記録映像は例外)ことは、この映画で語られる、民衆による革命に近い。中心的役割を持った主人公もおらず、物語における山場的なドラマチックなシーンもない、ぶつぎりの名もなき風景のショットたちは、階級闘争と革命に命を輝かせた農民たちを思わせる。

リュミエール以降、記録映画はストローブ=ユイレ的な方向には発展しなかった。それが悪いとは言わない、いやむしろ映画産業の発展のためにはそれでよかったのだが、ストローブ=ユイレ的な映画が、黎明期から今に至るまで数年に一度、細々と作られ続ける、という世界線も、歴史の転びかたによっては、もしかしたらあり得たのかもしれない。ストローブ=ユイレという存在もまた、早すぎたのか遅すぎたのか。
hasse

hasse