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20センチュリー・ウーマンのこーたのレビュー・感想・評価

20センチュリー・ウーマン(2016年製作の映画)
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 わたしの母は、わたしがまだ赤ん坊のころに彼女の夫と離婚して、生家へと戻った。
 わたしは父親の存在を知らずに育ったが、母の両親や姉夫婦、それに、たくさんいる彼女の友人たちに支えられて、すくすくと成長した。
 わたしはいまにいたるまで、父の相貌はおろか、その名前さえ知らずに生きてきたが、そのことを不自由に感じたこともなければ、いちどたって自分の人生が不幸だと思ったこともない。
 しかしながら世の中には、ひとり親の家庭は不幸、という思想が、植物の根のように蔓延っていて、ときおりわたしの足に絡みついてくる。

 わたしが生まれたのは、離婚と親権争いをテーマにした『クレイマー、クレイマー』という映画が公開された年で、メリル・ストリープはいまでも母のお気に入りの女優だ。
 いまはどうか知らないが、わたしが幼いころには、シングルマザーという存在はまだまれで(なにしろ当の「シングルマザー」ということば自体が、まだなかった)、わたしの友人たちにはみな、当たり前に両親がいた。
 わたしは、自分の家庭が、友人たちのそれとは違う、ということをいつしか知り、その、違う、という事実に怯えた。
 おとうさんは、なにをしているの?
 おとうさんは、いないんだ。
 わたしがそう告白するとき、その場にはきまって、暗くかなしみに満ちた不気味な空気が流れた。それは意識していなければ気づかないほどに微かで、ちょっとした揺らぎのようなものであったが、その不穏な揺らぎは確実にわたしを絡めとり、ひとり親の不幸な家庭、という枠に、わたしを無理やりはめこもうとした。わたしはそれがたまらなく嫌であった。
 じっさいにはぜんぜん不幸ではないのに、わたしはその不幸な物語の主人公であることを強いられ、かつじっさいには不幸ではない、ということを申し訳ないとさえ感じた。
 その揺らぎはすぐに消えてしまうものであったが、それは「当たり前」を生きている周囲の友人たちが、不穏な空気をかき消そうと躍起になっていたからであり、そんなかれらをわたしは滑稽にながめながらも、恐怖に感じていた。
 不幸な物語にはあまり触れないほうがいい。
 そんな暗黙のルールが、幼い子どもたちのあいだにも決まり事としてあるかのようで、じっさいには不幸であるどころか、ずっと幸福である、というわたしの物語を聞かせる猶予は与えられなかった。わたしは自由を奪われ、不幸という牢獄へ押し込まれた。

 母がなぜ離婚という道を選んだのか、そのほんとうのところをわたしは知らないが、離婚したことで母がある種の自由を手にいれたことはたしかだった。彼女はその自由を謳歌していた。
 離婚したことを不幸だとも負い目だとも感じておらず、おまけにいまのわたしとおなじくらいの年でがんを患ったが、そのことで暗くなるということもまるでなくて、その底抜けに陽気な性格は、わたしの人生を明るいものにした。
 ただ、母は自由を手にいれたはずなのに、わたしという重荷を背負ってもいた。
 母はわたしに父親のいないことは負い目に感じていたようで、自らも父親の役も演じようとして、それがうまくできずにもがき苦しみもした。
 母はわたしという重荷を背負って、一人で生きていく決意をしていた。あれこれと迷いながらも、ある種の覚悟を持って生きていた。母は強い女性であった。
 不恰好ながらもあくせくと生きている母の姿は、ほかの友人の母親たちと比べて、断然にカッコイイ、とわたしは思っていた。
 わたしたち家族にとっては、その生きかたこそが、当たり前であった。

 自由を愛する母は、やはり独自の生きかたを気ままに歩んでいる他のひとたちにも、寛容だった。
 彼女の周囲にはいつも魅力的な人間が自然と集まってきて、その風変わりな人間たちの奇妙な生きかたは、わたしの生きかたにも影響した。
 かれらに導かれて、わたしが当たり前の人生からはずれ、のらりくらりと生きていることに、母はしばしば小言をいった。
 その小言は、母自身、まっとうな人生を歩んだほうが、ずっと楽で生きやすい、ということを自分の経験からよく知っていて、自分の息子は苦労せず、まっとうな道を歩んでほしい、という想いのあらわれであった。
 ときおり小言はいいながらも、母はわたしの生きかたに寛容でもあった。
 わたしは母の真意に気づきながらも、平凡のカッコわるさに反発して気づかないふりをし、母の寛容さにばかり甘えていた。
 わたしはいつまでの大人になりきれずにいた。

 わたしが自由を求めて大人になりきれず、のらりくらりと生きているあいだに、若さをともにしたわたしの友人たちは、その若さをいちはやく捨てて、社会に雇われ、かつ家庭を持っていった。
 数年前、ある仲の良かった友人が、かれの幼なじみと結婚する、とわたしに打ち明けてくれたときのことだ。
 わたしはまだひとり捨てずにもっていた若さを発揮して、こんなことをいった。
 「きみは、そこそこの企業に就職して、そこそこの年齢で、そこそこの女と結婚する。数年後には、きっと子どもを持つのだろう。はじめは女の子で、つぎは男の子だ。きみはやがて家を建て、会社でも出世して、社会にそこそこ感謝されて、退職する。そのころには子どもたちも巣立っていて、きみたち老夫婦ふたりの暮らす家に、ときおり孫の顔を見せにくる。きみはそうやって年老いていき、最期は自宅のベッドに横たわって、温かい家族に囲まれながら、人生の幕をおろす。なんてありきたりな幸福なんだ!きみの幸福な人生は、まるでコマーシャルかなにかのように、ひどく平凡で、おまけにひどく退屈だ。おめでとう!」
 それは凡庸への対抗心から出たわたしの若さそのものであったが、すでにわたしよりもずっと以前に大人になっていた友人は、わたしの皮肉をこめた暴言にも憤ることなく、ただ苦笑するのみであった。
 しかしわたしは見逃さなかった。友人は苦笑しながらも、大きく見開いた目でわたしを見ていた。それは睨んでいるようにもみえた。
 平凡な幸福の、なにが悪い。
 友人の目は驚きにみちて、まるでわたしが、かれ自身の手にした平凡な幸福を脅かす、理解不能な侵略者であるかように、敵意のこめられた、おそろしい目だった。
 わたしはふたたび、当たり前、の事実に直面した。忘れかけていた、不幸な物語、をのぞいた。
 それは植物のつるのように足元を這いながら、じわじわとわたしに絡みついてくる。
 わたしは不幸の枷を、まだはずせずにいた。

 わたしは街の映画館のロビーにたって、周囲をみつめる。そこでは、いくつもの家族の幸福をみることができる。
 これから観る映画を、楽しそうにまつ親子の幸福。いま観てきた映画の感想を、嬉々としてはなす男女の幸福。
 その幸福のありかたは、どれも似通っているようにみえる。
 「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」 
 トルストイはそう書いていたけれど、幸せな家族にも、いろいろあっていいのではないか、と、わたしは目の前に広がる同じような幸福をながめながら、考える。
 平凡な幸福を、わたしは否定したいわけではない。
 映画館のロビーにあふれる当たり前の幸福をみれば、わたしでもおもわず顔がほころぶ。
 それはある種の憧れなのかもしれない。わたしもあんなふうだったらよかったな。
 そんな想いが、ないわけではない。だが同時に、それとは少し違う想いも、わいてくる。
 子どもは親を選べない。でも、もし選べるとしたら、わたしはできるだけカッコイイ親を選びたい。
 自由を求めている母。自由を謳歌している母。自由に寛容な母。そんなカッコイイ母。
 わたしは、わたしのカッコイイ母のもとに生まれてきて、心底よかったとおもっている。
 幸福にもいろいろあるのだ。
 当たり前からは少しはずれた幸福。わたしのカッコイイ母が描く幸福にも、ほんの少しだけ居場所があったらいいのにな、とわたしは祈っている。

 それはいつの日かわからないが、わたしがもし子どもをもつことがあれば、わたしはかれらに、かれらの祖母のカッコよさを、うまく伝えることができるだろうか。
 その自信は、まだない。
 わたしが映画を観にいくのは、その自信を獲得するためなのかもしれない。
 スクリーンのなかでは、さまざまな幸福が描かれる。現実の世界からはこぼれおちてしまった、多様な幸福がひろがっている。
 映画が祈りをくみとってくれる。映画が居場所をつくってくれる。
 わたしは映画を観ながら、うまく伝える準備をしている。
 そうやって自由を求めて、あくせくと生きている。