カラン

ラブ・アゲインのカランのレビュー・感想・評価

ラブ・アゲイン(2011年製作の映画)
3.5
中年の男が、高校時代からの付き合いの妻に、離婚したい、と。妻は職場の同僚とやったんだと。それでなぜか家を追い出されるのは中年男の方で、パット・モリタ?みたいに、ナンパ師の男が手ほどきしてくれて、がんがん。。。


本作は1億4500万ドルとメガヒットしているが、製作費も5000万ドルであった。『ワン・デイ 23年のラブストーリー』(2011)は1500万ドル、テレンス・マリックの『ツリー・オブ・ライフ』(2011)が3200万ドルで、ダーレン・アロノフスキーの『ブラック・スワン』(2010)は1300万ドルの製作費であったそうな。本作は広告宣伝費にでも大金をつぎ込んで成功したのかな。

本作を観ていて凄いなと思うことは皆無であったのだが、実際には1億4500万ドルも売っているのだから、広告宣伝や起用したムービースターたちのそのまま魅力以外に、何かスペシャルなものがあるんだろうと模索した。以下にぐだぐだ書くが、何も見つからなかったことを最初に告白しておく。


☆セックスと家族

父とか母とか姉とかいった家族的なものは性を抑圧するし、性も家族が直接的に現前しないように目をそらすものである。家族は性がなければ成立しない。性も家族がないなら鋳型をなくす。しかし同時に、家族と性は互いに互いを排除することで自分の可能性を守ろうとするのである。

①13歳と17歳

13歳が自慰をしていると、17歳の子守が部屋に入ってくる。直後のシーンで、君を想ってやっていたんだ、と13歳は17歳に告白する。これを精神分析では「否認」と呼ぶ。それは母ではありません、と13歳は言ったのである。しかし、それは母である。17歳の女は13歳の父親を欲望している。すると、13歳にとって子守りの17歳は名実ともに母のポジションに移行するのであり、父と息子が子守りを巡って対立することになる。つまり、この子守りは碇シンジ君にとっての綾波レイである。

父、母、子という核家族の聖なる三角形がこの映画の人物たちを規定している。マリサ・トメイも息子の先生だが、子守りの女のヴァリエーションなのである。映画スターを集めてきた本作であるが、非常に構造は単純なのである。このようなファミリーロマンスを脚本家が使うのは、集めてきたスターを一つの関係性の中に結束させるためである。後半の警察がやって来るシーンで、いがみあってベンチに並ぶ結集ショットを導出するために、逆算してエディプス的配列を使ったのである。その構造が見えない人は楽しいのだろう。しかし、その構造が見えるとつまらないという、詐欺みたいな映画である。

なお、長男のロビー(ジョナ・ボボ)は、人物造形がコメディとして優れているし、演技も非常に良く、魅力的なシーンが多い。彼は制作時には実年齢とほぼ一致していたようだ。

②やりまくるノーマン・ベイツ氏

ジェイコブ(ライアン・ゴスリング)のことをハンナ(エマ・ストーン)は好きになる。それはジェイコブがバーのカウンターからじっと見つめていて、目があっても不敵な笑顔で見つめているからではない。また、法律家の彼氏が結婚は長期的に検討したいと言ったからでもない。ジェイコブとキャルが微妙に同一化しているからである。要するに、父だから。

ジェイコブはキャル(スティーブ・カレル)のことを平手打ちして、別れた妻のことは忘れて、女を抱けとキャルを焚きつける。キャルはジェイコブのことを平手打ちにし、ナンパ野郎は自分の娘のハンナのことは諦めろと怒る。お互い殴りあいながら、キャルとジェイコブは同一化して入れ替わる。キャルはナンパなジェイコブの代わりに都合9人の女を抱く。同時にジェイコブは父の位置でハンナを愛することができるようになる。そのように父の位置にやって来たジェイコブをハンナも愛するのである。ここは雨の夜のクロスカットで描かれていた。

ライアン・ゴスリングの役回りはヒッチコックの映画のタイトルの意味で、サイコパスである。ハンナの上にのしかかりきらきら光りを反射させるマッチョな背中を映し出したロマンティックな男の正体は、ノーマン・ベイツでしょ?彼は母親の死体と暮らしていた。ジェイコブとの違いは刑事告発されるような犯罪行為に至っていないのと母親の死体が彼の洒落た部屋にはないだけである。母が死んだんだ、とベッドでハンナに早くやってくれとせがまれながら告白していた。母が死んだのなら、全ての女は代替品として性処理の道具となっていたわけだ。しかし、いったいなんでマザコンのサイコパスを素敵にしちゃうのかな。笑えないでしょうに。

ノーマン・ベイツが言い過ぎだというならば、今どきメディアを賑わせている女たちをやりまくってきた芸人と同列だろうと思うのだが、彼はそれに疲れて、キャルと役割を代えたのである。そこで「かっこいい」に仕立ててるのが、えぐい。つるつるてかてかのマッチョでのしかかるロマンティックにしているのが、気色悪い。ファミリーロマンスと性的対象の選択が一体化しているのは、かまわん。しかしお笑いにいけよ。「サイコ」で笑いとってみろよ、と思う。


☆本作の魅力 

本作のようにスターをずらずら揃えましたというスタイルの場合、人物たちを結集させる業(ごう)を描くことである。それが父とか母とかいうファミリーロマンスが、普通に考えると気持ち悪いくらいに本作のあらゆる性選択において下敷きにされている理由なのである。実は、その年上の男性はあなたの父なのでした、とか、君の父はあんただったのか、的な設定の説明が常に事後的になされている。「実は、、、」というように説明がこっそり遅延するのが、本作のプロットの特色なのである。無知につけこむあざとい構造にしか見えない。

たぶんこの映画を楽しめる人というのは構造的には映画を観れない人たちなんだろう。構造的に観ないから、みえみえの遅延がわくわくとどきどきを減衰させない。逆に構造的に観ると、展開が遅いな~、早くしろよ、とか、もっとマリサ・トメイを映せよ、くらいしか思わん。コメディとして楽しいのは息子くんとマリサ・トメイだけでしょ。マリサ・トメイは「男の不幸に感じる」という変人で、『ワンダとダイヤと優しい奴ら』(1988)みたいで楽しいよね。

しまった、魅力を語ろうとしたのに、不満に変わってしまった。

本作の魅力は35mmのアナログ撮影!本当はこれだけなのかもね。感じるか感じないかぎりぎりのレベルでも、アナログ的なものって支えてくれるんだよ、きっと。どんな内容のものでもね。



レンタルDVD。アナログの風合いの良さは感じるが、画質自体は普通か、ちょっと劣るかな。
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