てぃだ

マダム・フローレンス! 夢見るふたりのてぃだのネタバレレビュー・内容・結末

3.6

このレビューはネタバレを含みます

メリル・ストリープという女優はやはり愛されている。言うまでもなく、彼女はアカデミー賞の常連である。かの大女優キャサリン・ヘプバーンの記録を超え、既に19回もアカデミー賞にノミネートされている。「賞が服を着て歩いている」とか、「自動的に彼女に票が入るシステムになっている」なんて揶揄する人もいるぐらい。ただ、何も賞をたくさん獲っているということだけが彼女が愛されているという根拠ではない。特に21世紀代以降の彼女の主演作をざっと追うと明白なのだけど、彼女の出演する映画のほとんどはとにかく「彼女を褒め称える」映画である。『プラダを着た悪魔』も『マンマ・ミーア』も『8月の家族たち』も、彼女の役は本来主人公ではない。そのはずなのに、結局この手の彼女が主演じゃない映画でさえも、他の女優や役者たちが大女優メリルを称える映画でしかなかったから驚く。吉永小百合の出演する映画は結局どれも他の役者が吉永を称える映画であるのと同じ・・といえばそうなのだけど、特におかしくて笑ってしまったのが『イントゥ・ザ・ウッズ』で、何とあの天下のディズニーですら彼女を称えるのに必死だった。どんだけ業界で愛されているんだメリル。実はハリウッドの黒社会のドンや合衆国大統領の弱みすら握っているのではあるまいか・・・。ぶるぶる。




だから、何だかとっても嬉しい。何が嬉しいかって、だってメリルが主演のいつも通りの「みんなでメリルを称える映画」だと思っていた本作で、彼女以上に存在感を発揮しているのがあのヒュー・グラントだという事実に、だ。そう、『マダム・フローレンス』の主演はなんとヒューだ。メリル扮する金持ちマダムの夫に扮するヒューが、間違いなくキャリアベストの演技を見せている。明らかに顔の皺が増えてはいるが、持ち前のコメディセンスを存分に発揮しつつ泣かせる。ここでポイントなのが、飽くまで「コメディ」という土俵で好演を見せているということ。もちろんマジメな演技もできる人だけど、ヒューといえばやはりコメディ、それもラブコメ畑で活躍してきた人だ。その「自分の武器」を封印せずに、あのメリルと堂々と渡り合っているのが何だかすごく嬉しい。歳をとって若い頃ほどはプレイボーイじゃなくなってきたのかと思ったら、形はやや変化球なれど相変わらずその部分すらちらつかせるのもご愛敬。今年のオスカーはぜひともヒューを応援したい。




「好きこそものの上手なれ」とはよくいうものだけれど、「好き」だから当然上手くできるわけではない。どんだけ映画が好きで映画を何千本も見ていようが、小説が好きで何千冊も読んでいようが、じゃあその人に実際に映画を作らせたり本を書かせてみたらとんでもなくヒドイ作品に出来上がったりもする。例えばAVが好きで何本も見ている男がじゃあSEXが上手いかといえばそうとは限らないのと同じだろう。それなのに僕らは偉そうに映画や本、音楽など他の人が創作したものについて語る。「あの監督や役者は大衆に迎合するようになってつまらなくなった」だとか。映画や音楽は何も一人の人間が作っているわけでもないのに、さもその個人や数人の役者だけが作ったかのように偉そうに語り、批判する。もちろん僕も映画のレビューを中学生の頃から書き続けている人間の一人なので、レビューが無駄だとは決して思わないし、金を払って作品を見ている以上は言いたいこともあるし言ってもいいと思う。ただ、やっぱりどんだけたくさん作品に触れただけで分かったようになっている僕のような人間よりも、どんだけ少なくても自分で作品を作り出し世の中に送り出した人間の方が全然偉いし勇気がある。




本作でメリルが扮するマダム・フローレンスはそれを体現する。彼女は歌が大好きだ。普段は何も考えてなさそうな頭カラッポの金持ちマダムのようなノー天気さを見せているものの、実は昔の夫にうつされた梅毒に身体を蝕まれ、いつ死ぬかもわからない状態。それでも50年以上病と闘いながら生き続けてきた。そんな彼女の心の支えこそが音楽だった。彼女の夢はカーネギーホールで自分のリサイタルを開くことで、著名な歌の講師やピアノ伴奏者を雇いその夢に漕ぎ出していく。ところが彼女は音痴だ。ジャイアンやコナン君もびっくり仰天の歌声である。そしてそれに本人だけが気が付いていない。周りは気づいているものの誰も彼女に教えてやることができない。そして調子にのった彼女はどんどん夢に向けて自分の歌声を人々に聞かせる場を広げていく。ところが、中には彼女を気遣い拍手してくれる人間もいるものの、世の中は冷たい。その中で彼女はついにカーネギーでの夢を実現させるのだが、同時に自分がものすごい音痴で、周りの人間には賞賛どころか嘲笑や哀れみの情を持たれていたことを知って絶望する。




その時にヒューがメリルに対し「俺は嘲笑してなんかいない。君の声は本物の天の声だ」などと励ますのだけど、その時のメリルの言葉がいい。「確かに私の声はひどいかもしれないけれど、でも私があのカーネギーで歌を歌った事実だけは誰にも消せないわ」。そして彼女の言葉通り、彼女のあの日の歌声は伝説として語り継がれている。その事実だけで何だかものすごく泣けるじゃないか。もちろんそこには映画以上のドラマや苦悩、夫の気遣いや愛情があったに違いないけれども、人が作ったものに対して偉そうに語り非難しているだけの観客たちよりも、ずっとずっと勇気があってカッコイイではないか。最低の自己満足と非難されようがセンスがない、とけなされようが、何かを作って出すことは尊い。今の世の中で持てはやされ賞賛されている音楽や映画、小説はたくさんあるけれども、そのいったいいくつがあと200年後や500年後も人々に愛され、シェイクスピアや聖書と並ぶ名作と言われているかは疑問だ。おそらくほとんど残っていないはずだ。今は『君の名は』や『シン・ゴジラ』が絶賛されていても、500年後の人間は松本人志の映画を名作だと呼んでいるかもしれない。そうならないとは言い切れない。だから今の流行りなんてのは大して重要ではない。大事なのは内に秘めているだけで満足せず、どんな形でも何かを作って世に出すこと、それだけで既にその人の勝利と言ってしまっていい。才能のあるかないかよりも、その一歩を踏み出せるか否かこそが勝利の分かれ目なのかもしれない。
てぃだ

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