こーた

メッセージのこーたのレビュー・感想・評価

メッセージ(2016年製作の映画)
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戻る、という字の旧字には、点がひとつ余計にあって、「戸」の下が「大」ではなく「犬」であった。
開けておいた戸に犬が戻ってくる、というほうが、ずっと雰囲気が出ている。
かつてそう言っていたのは、吉行淳之介だったか。

思考は言語が形成する。
だとしたら、われわれはラッキーだ。
音をあらわす、やまとことば。それに加えて、意味をあらわす漢字を、自在に操る。
われわれ日本人の思考は、ヘプタポッドと幾分にているのかもしれない。

わたしは決して長くはないが、そう短くもない時間、物理学に親しんできたが、いまだに不思議に思うことがある。
そのひとつが、微分積分学の基本定理、といわれるものだ(不思議に思うことはもちろんひとつだけではない。それは無数にある。自然とはそれほど奇妙だ)。
多くの自然法則は、微分のカタチであらわすことができる。
それは「いま」「この場所」で起こっていることだけから、巨大な自然を記述することができる、ということでもある。
局所的(ローカル)な情報のみから、大局的(グローバル)な事象を描くことができる。
遠く、未来で起こる出来事を、予測することができる。
実に奇妙ではないか。

未来が予測できるなら、その生を生きる意味はあるのか?
人生の結末は、みな等しく死である。結末はすでに決まっている。
われわれは結末が知りたくて生きているわけではない。
重要なのは過程だ。
いま、という過程。それは人生の微分である。その微分を積分すると、わたしの人生の物語になる。
わたしはすでに原作を読んで、この物語の結末を知っている。
結末がわかっている物語でも、過程を知りたくて映画を観にいく。
わたしは以前すでに観て、その結末を、軌跡を知っている映画でも、何度も観かえすことがある。
繰り返し観ることで、新しい発見をする。その映画がいっそう好きになる。
予測できる未来を、何度も生き直すことで、より深く、映画を、人生を愉しむことができる。
映画を観る、という行為そのものが、わたしの人生の一部でもある。
映画で描かれる過程が、わたしの未来を予測する。
その過程の微分が、わたしの人生を形成する。
映画という言語が、わたしの未来を形成する。
だからわたしは、きょうも映画館へ「戾って」いく。