糸くず

アズミ・ハルコは行方不明の糸くずのレビュー・感想・評価

アズミ・ハルコは行方不明(2016年製作の映画)
3.7
何者にもなれないお前たちに捧げる哀歌。

地方都市の中小企業に勤めるアラサー独身女性の憂鬱を見事に映し出している。ドラッグストア、レンタルビデオ屋、ファミレスに象徴されるロードサイドの風景。どんな事もあっという間に広まってしまう交友関係の狭さ。家に帰っても癒しなどなく、家族はむしろ一緒にいることが苦痛な存在でさえある(ボケた祖母、怒鳴る母、無関心の父)。職場では、ろくでもないおじさんたちのセクハラが待っている。

牢屋に閉じ込められたような生活。SNSで仲良くなったフランス人と結婚する同僚の吉澤さんは稀有な例であって、誰かが救い出してくれることはない。吉澤さんの余裕と逆襲には痛快さもあるが、彼女にはなりえないことへの嫉妬も混じる。

安曇春子(蒼井優)にとって、同級生の曽我氏(石崎ひゅーい)との出会いは、牢屋から抜け出す大きなチャンスだった。何も持たない彼女にとって、曽我氏は幸福への切符となりうる存在だった。しかし、曽我氏にとっては、どうだろうか。たまたま出会った同級生の女に過ぎない。

「恋愛とかめんどくさい」、別の女(この人もまた同級生である)とのデートについて問い詰める安曇春子に、曽我氏が言う一言。これは、ただの言い訳である。新しい女である杉崎ひとみ(芹那、ベタなキャスティング)は結婚している。つまり、不倫である。彼は、自分にとっては、本命との間のつかの間の関係に過ぎない安曇春子が執着してきて、鬱陶しいのである。

つかみかけたように見えた切符を破り捨てられることは悲劇であるが、それだけではない。コンビニでバイトをしている同級生から、安曇春子は、曽我氏とひとみが付き合っていることを知る。同級生は「曽我だよ、曽我。杉崎も堕ちたよな~」と言う。

では、そんな曽我を好きになったわたしは、なんなのか。クズを好きになったバカな女なのか。

誰も彼女を優しく受け止めたりはしない(いや、ただ一人手を差し伸べる人物が出てくるが、彼女はその誘いを断ってしまった)。そんな場所からは、いっそ消えてしまったほうがいい。

安曇春子が消えるまでの出来事と並行して描かれるのが、安曇春子の似顔絵をグラフィティ・アートとして街中にばらまく若者三人組の姿である。

安曇春子の悲劇とは別の悲劇がここでも展開される。それは、男たちの軽蔑に気付かずに生きる愛菜(高畑充希)の悲劇である。

彼女にとっては、ユキオ(太賀)は「恋人」であり、学(葉山奨之)は「仲間」である。しかし、男たち二人にとっては、たまたまそこにいただけの存在に過ぎない。ユキオは愛菜を見下し、「頼めば、一発ヤらせてくれる」とまで言い放つ。学もユキオに同調する。

愛菜はバカではある。バカだけども、それが踏みにじられていい理由にはならない。安曇春子も、愛菜も、「女である」ということだけで、蹴落とされ、見下され、居場所を奪われる。現代のニッポンに生きる女性たちの絶望がここにある。

では、救いはあるのだろうか。この映画で提示されるのは、失踪と暴力による救いであるが、そんなものは何の役にも立たない。どこか別の場所に逃げても、そこがニッポンである以上、その場所でも女たちは同様に搾取されているのだし、そこら辺にいる男をぶん殴ったぐらいで、男たちの優位が変わるわけではない。この映画ではなぜか神聖視されている女子高生たちもまた「牢屋の住人」である。この映画の希望は、既に牢屋から脱け出した原作者の戯言に過ぎない。

下手な救いを用意するぐらいなら、彼女たちの絶望をそのまま写し取るだけでよいのだ。彼女たちの絶望を知った者たちのうちの何人かは、目の前の女性たちの憂鬱を想像できるようになるかもしれないのだから。
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