助け合って、励ましあうのが友達なんだとしたらケンとカズは友達とはいえない。
けれど、この映画を観た人は紛れもなくこの二人が強い絆で繋がっていること、また繋がって"しまっていること"を感じるだろう。
それはなぜか。
彼らは「痛み」を共有している。
「痛み」や「悲しみ」人格の負の部分を共有しているからだ。
絶対的に孤独な彼らに、友情が芽生えるとしたらそういう芽生え方しかあり得ないのだ。
そして、その友情は案の定破滅に突き進んで行く。
閉じられた社会から抜け出そうともがけばもがくほど、蜘蛛の巣にかかってしまった蝶のように身動きが取れなくなって行く。
それでも、彼らの関係を羨ましく思うのはなぜだろう。
普通に生きている私たちの方が、本当の意味で孤独なのではないかと思わされる。
正の感情ばかり共有して群れている私たちの方が孤独だ。
私たちはひとまず、この映画の彼らのように絶対的に孤独にならなきゃいけないのかもしれない。
そうしないと、底辺でもがいているやつの気持ちなど分からない。
わからなくていいという人もいるかもしれないけど、俺はわかりたい。
そっちにいつか行っちゃうかもしれないから、わかりたい。
「俺はそんなことには絶対ならないから大丈夫」と平気で口にしてしまうような鈍感な奴にはなりたくない。