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スペクタクルの社会のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

スペクタクルの社会(1974年製作の映画)
3.0
【余暇に飼い慣らされた大衆ども】
先日、ギー・ドゥボールの『サドのための絶叫』を観て衝撃を受けると共に、彼に興味を持った。そして「スペクタクルの社会」の原作と映画版に触れてみることにした。「スペクタクルの社会」はギー・ドゥボールが書いた哲学書である。大量消費社会において商品に支配され、スペクタクル(見世物)のイメージに押し込められてしまう時代を批判した内容となっている。『サドのための絶叫』はまさに映画が持つ見世物的な側面からの解放を意味する作品であり、白い画面の中で民法典の条文やジェイムズ・ジョイスが断片的に読み上げられるパートと、真っ黒で何も音すら流れないパートを交互に描くことにより映画を批判してみせた。今回は、原作を踏まえて映画版『スペクタクルの社会』について書いていく。

文明が発達するにつれ、人々は余暇を獲得した。労働から消費の社会が訪れると共に、パフォーマンスや映画、ファッションといったスペクタクルが生まれていった。街も合理的に都市計画が進み、人々は労働から少し解放されるが、その自由な時間(=余暇)は消費社会の歯車として支配されることになる。ギー・ドゥボールは、商品による支配だけでなく、時間や空間といった物質的要素から離れたところにまで侵食されていることを批判した。そのため、「スペクタクルの社会」では「スペクタクルを、視覚的世界の氾濫や、イメージの大量伝播技術の産物と理解することはできない。」と語っている。また、旅行を例に次のような辛辣な批判をしている。

「商品循環の副産物として、一つの消費として見なされる人間的循環、すなわち観光が生まれるが、それは結局のところ、本質的に、凡庸化されたものを見に行く余暇である。さまざまな土地を訪れるための経済的整備は、既にそれ自体で、それらの土地の等価性を保証するものである。旅から時間を奪ったのと同じ現代化が、旅から空間の現実性を奪い去ったのである。」

現代人は、時間に追われている。効率良く余暇を楽しむためにツアーが組まれていたりするが、それは凡庸化されたものを見ているに過ぎない。本来の旅は時間から解放される中で起きる一回性のものであり、再現性のもと整備された観光は果たして旅と言えるのか?と疑問を投げかけている。

それを踏まえて映画版を観ると、映画が持つ視覚的側面を批判するために視覚的側面を効果的に活用する作品となっている。裸体の女性の画を並べていく、群衆、不気味に整備された土地の画を魅せながら、「スペクタクルの社会」で言及したことを語り直す。大量の群衆の前で闊歩するヒトラーの映像と、映画においてもみくちゃにされる群衆たちを並べることで、人を一箇所に集めることによる歪んだ豊かさを指摘し、そこから自動車工場でロボットのように淡々と働く労働者、リゾート地やカフェで鮨詰めになりながら余暇を楽しむ群衆を並べ、人類は労働から解放され自由になったと思いきや、社会システムに支配されたままであることを批判している。

そして、スペクタクルに支配された現代においてコミュニケーションは破壊されてしまったことを象徴するようにバベルの塔の絵を並べる。ギー・ドゥボールのフッテージ映画は、ゴダールの作品と比べると戦略が感じられ、一つ一つの画が線のように繋がり説得力を帯びてくる。単に思想家の単語を押し並べて、観客に理解を押し付ける演出とは対極の作りをしていることがわかる。

正直、映画も原作も難解ではあるが、スキマ時間をYouTubeやソシャゲ、毎日のように配信が開始される映画によって奪われ、時間の奴隷となってしまった今における処方箋としてギー・ドゥボールは再評価すべき人物であろう。
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