こーた

ジャッキー ファーストレディ 最後の使命のこーたのレビュー・感想・評価

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記者のインタヴューにこたえる、というカタチで、映像の断片を繋いでいく。そんな入れ子構造になっているあたりが実に巧妙で、よくできている。
ジャッキーが語る「物語」を、わたしたちは観ている。この感覚が、なんとも映画的なのだ。

ジャッキーを演じるナタリー・ポートマンは、ジャッキーそっくりに演じていることが素晴らしい、というよりは、「大統領夫人という虚像を演じるジャッキー」を演じてる、という感じなのが素晴らしい。おっと、ここも入れ子になっているのだな。
喜怒哀楽のうち、「怒」と「哀」の感情がほとんどであるにもかかわらず、どの表情も、どの仕草も、どの声も、すべてが美しくて、魅入ってしまう。ナタポだけをずっと観ていたいし、彼女だけでも十分、観るに値する。

歴史は、生き残ったものが作る。死人に口なし。死んでしまったもののことばは、生きているものが代弁するしかない。死者を忘れないために。志なかばで斃れたものが、なにをしようとしていたのかを、ちゃんと伝えるために。
と同時に、遺されたものたちは、哀しみを乗り越え、生きていかなければならない。死者をちゃんと、忘れなければならない。
伝承と忘却。両者の間には葛藤がある。
葛藤あるところに、物語あり。葛藤に打ち克つ物語が、歴史となる。
哀しみを棄てるには信仰が必要だし、生者の物語である以上、都合のよい虚構も交じる。
かくして歴史は、神話となる。
だからこそ、歴史の取扱には細心の注意がいる。歴史とは単なる記録ではない。そこには物語がある。

この映画は、ジャクリーン・ケネディ大統領夫人が歴史を作った物語、ではあるのだが、そのように観てしまうと、大切なものがごっそりと抜け落ちてしまう。
これは、ファーストレディにまでなった女性が、「ジャッキー」という普通の女性に戻るまでの物語なのだ。
その物語が、歴史になった。
あべこべにみてしまったら、きっと退屈だ。

ジャッキーは、自らがどうみられているのかを客観視できる、聡明な女性だ。彼女が、大統領夫人という「役」を棄てるために演じた、さいごの大芝居。「映像の世紀」を象徴するのにふさわしい、絶妙なキャスティングではないか。
そんな映画を、ぼくたちは観ている。生きていくために。
やはりぼくたちには、歴史が、物語が、映画が必要だ。