SatoshiFujiwara

彷徨える河のSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

彷徨える河(2015年製作の映画)
3.9
観ようと思ってすっかり忘れた頃にイメフォでアンコール上映、いそいそと出掛ける。予告編のイメージから想像するに観念的で重い肌触りの作品かと思っていたら良い意味で想像が外れ、これには独特の軽みがある。それは美しいモノクロの撮影が対象との距離を上手く調整して客体化しているのと同時に、また監督チロ・ゲーラの語り口もあくまで慎ましやかなためだろう。

壮年期と老年期のカラマカテ(アマゾン先住民のシャーマン)が20年という歳月の流れをことさら観客に深く印象付けるような演出もなく二層でパラレルに描かれるさまがまず良いが(この複層性やら外部の人間と先住民の関係、という点でバルガス=リョサの『緑の家』を思い出さずにはいられないが、やはり読んだ上で意識したのだろうか?)、20年の歳月を跨いでドイツ人民族学者とアメリカ人植物学者に乞われたカラマカテが聖なる植物ヤクルナ発見の手引きをしながらどんどんジャングル奥地に分け入って行く中で、まるでカルト教団のように描かれるイカれた白人牧師と少年少女のコミュニティやら、大道芸人よろしく民族学者と手引きの先住民がコミカルな踊りを披露してみんな楽しげに笑いかつ親しげなのに、しかし白人学者が持っていたコンパスをシレッと持って行き、それがないことに気付いた学者に対して自分たちの穀物か何かと物々交換を迫り、コンパスは絶対に必要だから渡せないのだと強く返すように話してもまるで意に介さず、こりゃ駄目だとばかりに諦めて踵を返してボロ舟に引き返す。さりげないこのシーンにおける静かな暴力性と絶対的な他者性の表出が圧倒的で戦慄させられましたね。もう、取り付くシマもない、とはこのことですよ。

ドイツ人民族学者がアマゾン奥地に持って来て音楽を流し始める蓄音機はいわば未開と文明の対比というクリシェ表現だが、ここに『フィツカラルド』や『地獄の黙示録』(そしてコンラッドの『闇の奥』)を読み取ってしまうのもまたわれわれにしてみれば仕方ないところだろう。但し、あれらの作品にある誇大妄想性やら攻撃性、邪念は本作にないし、白人目線でもない。カラマカテはこれみよがしな神性をまとわされることなく、しかし余りに唐突なあの一瞬の「カラーによるパート」を経て宇宙と一体化する。繰り返すが、しかしそこにわざとらしい表現がまるでなく余りに事態は滑らかに進行して行くのが素敵だ。ちなみに本作の原題は『蛇の抱擁』というもので蛇の話や映像がしばしば出て来る。蛇と聞くとレヴィ=ストロースやら中沢新一のおかげもあって文化人類学的な思考に寄りがちになるが、本作のキモはそっちの方にある気がする、知らんけど。

たっぷりと湯を張ったバスタブにでもつかるように身を浸して観て頂きたいですね。
SatoshiFujiwara

SatoshiFujiwara