ケンヤム

ハドソン川の奇跡のケンヤムのレビュー・感想・評価

ハドソン川の奇跡(2016年製作の映画)
4.8
さっき見直して、もう一回何か書いてみようかと思ったが、前見た時の文章が、くさい気もするが、案外悪くない感じだったのでそのままで良いかと思い備忘録的に投稿し直し。

正しさという概念が、どれだけ曖昧なものかということをこの映画を観て思う。

人間は、正しいか正しくないかで判断を下していると思いがちだが、そうではない。
それは、機械がするべき仕事であり、人間がするべき仕事ではない。
人間が判断を下すとき、一番重要視しなくてはいけない基準は「今、やるべきことは何か」ということであると思う。
サリーは、正しさという曖昧な概念に頼らず、自身の中にある「やるべきこと」に従ったからこそ、ハドソン川への着水という前例のない判断を下し、全ての乗客を救ったのだ。
155人の命を救ったのだ。

忘れてはいけないのは、155人という数字の中には、サリー自身も含まれているということだ。
この映画では、サリーを待つ家族も描かれる。
サリーは家族のためにも、死ぬわけにはいかなかった。
だからこそ、神業とも言うべきハドソン川への着水を「生への執着」によって達成したのだろう。

命と向き合ったのはサリーだけではない。
乗客だけではない。
ニューヨークという街全ての人が、ハドソン川への着水の瞬間、命と向き合った。
ニューヨークという街は、9.11という亡霊に取り憑かれた街だ。
ニューヨークの人々は、低空飛行を続ける機体を見てなにを思っただろうか。
誰もが9.11のあの悲劇を思い出しただろうと思う。
それが、どんなに怖いことか日本に住む私たちにはわからない。
とても怖いことであったと思う。

それでも、ニューヨークの人々は逃げなかった。
誰もが、救助の準備を整えた。
そこには、9.11の悲劇を繰り返さないという強い想いがあったのだろうと思う。

救助船のキャプテンの言葉が印象深い。
「誰も死なない」
2001年9月11日、ニューヨークでたくさんの人が死んだ。
悲しみを乗り越えて、時には悲しみを引きずりながら、ニューヨークの人々は生きている。
ハドソン川でまたたくさんの人が死ぬなんてことは、許されることではなかった。
だからこそ、あの時ニューヨークにいる誰もが主体性を持ち得たのだ。
ある人は祈り、ある人は船を出し、ある人はヘリを操縦し、乗客は身を寄せて体を温めあった。

悲しみを乗り越えたからこそ、誰も死なずにすんだ。
別の言い方をすれば、9.11の悲劇から学んだ教訓を生かしたからこそ、誰も死なずにすんだ。

ハドソン川での一件は、決して奇跡なんかではなく、必然だったということが、この映画を観るとよくわかる。
この世に奇跡なんて無いのかもしれない。
誰もが、やるべきことをやった時、俯瞰的に観ると「奇跡のように見えること」が起こるだけなのだ。
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一人一人の熱量が伝わってくるような映画。
泣いてる人、震えている人、子どもをかばう人、焦って川に飛び込んでしまう人。

155人という乗客の数しか、ニュースからは伝わってこないが、この映画からは一人一人の感情がダイレクトに伝わってくる。

報道やニュースでは、俯瞰的に捉えすぎてしまってできない。絵でも抽象的になってしまいできない。小説では、一人一人の表情をダイレクトに伝えられない。

この映画は映画にしかできないことをやったのだ。
人間を伝える。事件ではなく。
感情を伝える。事件ではなく。

英雄ではない一人の人間サリー。
155人という数字ではない一人一人の乗客。
ケンヤム

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