SatoshiFujiwara

天国はまだ遠いのSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

天国はまだ遠い(2015年製作の映画)
4.2
元来は『ハッピーアワー』のクラウドファンディング特典として制作された短編とのことだが、とことん金を掛けていないシンプルな38分が何と濃密なことか。

AVのモザイク付けの仕事をしている雄三はつまり「本来そこにあるものを不可視化」している(最初の方に出て来る、ゴダールの『カルメンという名の女』の自由な引用とも思われる雄三のシャワーシーン→雄三と三月が二人羽織のようにして本を読むシーンは後半の伏線であると同時に、そこでのセリフにはセクシャルな符丁があってドキっとさせられる)。そして17年前に殺人事件に巻き込まれて死んだ雄三の昔の同級生である三月(みつき)はなぜか雄三の傍らに常におり、その姿は雄三にしか見えない。雄三は、いわば「見えるものを見えなくして、見えないものを見えるようにする」(後者の意味は映画を観て下さい。要は霊媒、だ)。

しかし、見えたからとてそれが「真実」なのかはまた別の話だ。さらには見えた方が良いのかも、これもまた分からない。霊媒=雄三の発する三月の言葉は、雄三が本当の霊媒であるがゆえに発せられた言葉なのか、あるいは演技なのかが分かるはずもなく(と言うか、映画ってやつ自体が嘘なんだからこの設問自体が成立しないとも言え、つまり極めて自己言及的な作品だ)、それに思わず感極まる三月の妹・五月もまた本当に信じてのことかそれともそうでないのかもまた、分からない(このシーンで、雄三と五月が立ち上がって抱き合い胸から上がフレームアウトするショットは映画内で五月が撮影しているドキュメンタリーのカメラのフレーミングという設定で、この生々しさには不意打ちを食らう)。

現象はいつでも曖昧だし、どうにでも反転するし変化もする。それは「事件」(われわれの日常は日々これ細かい事件の集積だ)に遭遇してしまった人の数だけ捉え方と生き方がある。三月は被害者であると同時に、五月を含めた家族にとっては加害者、でもある。繊細な、そしてはっきり語ってしまうと途端に陳腐化しかねないもろもろの間(あわい)をさり気なく画面に定着させる濱口竜介の手腕には驚く。結局、濱口竜介はこういう曖昧さの本質(曖昧さに本質なんてものがあるのか分からんが)をなんとか掴み出したい作家なんではないか。観た後にはいろんな断片的想念が脳裏に渦巻く。
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