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ダンケルクの百合のレビュー・感想・評価

ダンケルク(2017年製作の映画)
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戦争、その実像

今回も相変わらずノーランは時間と空間の位相をずらすお決まりのやつ。流れの違うそれぞれの時間がひとつの点に向かって収束するカタルシス…は理解できるのだが、こうなんというか、なんというか、俺凄いでしょ感というか…技巧が鼻につく。まぁ伊坂幸太郎とかも嫌いだしな。ただ今回はそこらへんそこまでわざとらしくなかったのでよかったかな。
セリフと状況説明が本当に少ない作品。わたしは事前に調べて行ったからよかったけど、そうでない人はどうなんだろう。まぁこの程度の背景知識は英国人には当たり前なのでしょう。バカでもわかるように作られたせいでタルい映画が多すぎるので、(得てしてそういう作品の方が多くに支持されることはわかっていますが)わたしはノーランのこの姿勢も好き。
そもそも“敵”であるドイツ軍の姿が一度も観客にさらされることがない。どこからか飛んでくる砲弾、はるか空中より突然飛来する戦闘機。人称性を欠いたこれらこそ、リアルな“戦場における敵”だったのだと思う。(主人公の名前“トミー”さえ意識されるようには作られていないのだが、トミーとはそもそも“イギリスの兵士”を指す俗語である。ここからも“イギリス兵”という概念、ワンを描くことでワンオブゼムに目をやらせるという監督の意図が感じられる)
オープニングの印象的なシークエンス、後ろ姿を晒すくたびれた6人の兵士、なんでもない天気、いきなり放たれる銃弾。孤立した英仏軍のメタファーであり、その後のイギリス人兵士トミーとフランス軍の微妙な空気は、そのまま聯合軍の張り詰めた関係を表している。すこし歩くだけでその先は海という、追い詰められた異常な状況も、ダンケルクの海岸を映す引きのショットから伝わってくる。
人称性を失い、“脱出しようとするイギリス兵”、“助けようとする英空軍兵”、“助けようとするイギリス市民”の全体を背負わされた3人の主人公であるが、徹底的に彼らの背景を排除してしまってはただの歴史として処理することになってしまう。彼らには彼ら固有の時間と人生を(ほのめかす程度に)与えられる。固有の時間を歩ませるのはノーランのお得意だからいいとして、人生というか、ドラマの与えられ方が薄口だからしばしば「つまらない」という評価をくだされてしまうのだろう。想像力の欠如である。
“脱出しようとするトミー達”には生き残ろうとする意志、上官との序列、ささいな助け合いと仲違い、見逃しや恐れがじゅうぶんに描かれている。“英空軍”のパートでは一番わかりやすいドラマがあったのではないだろうか。仲間との助け合い(“He is on me”)と別離、敵機の撃墜、覚悟(このまま引き返せば帰投できるが、ドイツ軍の追跡を続けることを決めるシーンのトム・ハーディーの演技は素晴らしかった。本当に目だけで全部を表現するのだもんな…)“英市民”の部分では、息子を空軍で喪った父親が主に描かれる。それでも軍人を救うのだ、なぜなら故国を守らなければならないから。というシンプルな動機に貫かれた老人は、乗組員を死なせてしまっても引き返すということをしない。(PTSDを患った兵士と少年たちの諍いは、そのまま第二次世界大戦帰還兵と戦中・戦後のイギリス社会の軋轢を写しているのだろうか。そこらへんの知識がないのでわからなかった。とにかく彼ら主人公は自分の命など“何か”を賭けねばならず、その表象としての乗組員の命なのかな?と…)(3人とも“自分の為すべきこと”が与えられているわけだが、それらにもグラデーションがある。“生き残ること”と“同胞を助けるために敵を殺すこと”。そうすると“同胞を助けるために何かを見捨てること”が必要だったというわけか?)
まぁともかくすこしの想像力を使えばわかる彼ら3人それぞれのドラマであるが、これらはまったく回収されずに終わってしまう。たしかにダイナモ作戦は成功する。トミーは生きて故国の地を踏むし、ファリアはヒーローになるし、父親は大勢の兵士を船に乗せる。しかしトミーの友達になったフランス人兵士は取り残されてしまうし、ファリアは不時着し銃口を向けられる。彼らからまた繋がる無限ともいえる人間の糸はそれぞれに断絶されたりされなかったりしたまま、この作品は終わるのだ。そのグロテスクな断面を晒すことが、この作品の存在理由なのだと思う。
三島由紀夫は『潮騒』で“3人の子供”を喪った母親を描くが、この座りの悪さこそが戦争なのだ。数字、全体として処理すると戦争は歴史になる。ひとりの死やヒーローを描くと戦争は文学になる。
しかし本当の戦争は、顔を見たことがある程度の兵士だったり、すこし話したことのある船の乗組員だったり、かじりかけのパンを失うことの繰り返しなのだろう。“あなた”でも“彼ら”でもないものたちを失う感覚。無情にも助かったり助からなかったりするダンケルクに関わった彼らの座りの悪さを、絶妙なドラマの“薄さ”でノーランは表現している。
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