昼行灯

不滅の女の昼行灯のレビュー・感想・評価

不滅の女(1963年製作の映画)
4.3
これぞまさにオリエンタリズム!これぞまさにファムファタール!って感じで最高にすこ映画だった

この作品において、女は実在しない女として描かれている。
物語冒頭で、女は男の眼差しの対象である。男はブラインドを動かして、部屋の外の海を見ているが、その次のカットでは女がやや目を見開いたまま笑顔でこちらを見ている様がクロースアップで映される。その後、何度かこのショットが繰り返されるが、常に女はほとんど瞬きしなく、微笑んでいる。男は自発的にブラインドを動かして眼差すために、その眼差しには恣意性が伴う。それにもかかわらず、女は常に変わらない表情で男を見つめ返す。しかし、2階の窓の外には海が広がっているのみであり、女が見つめ返すわけもない。したがって女は実際に存在していて、男を見ていはしないのではないか。
その後、男は女と出会うが、そこでも女は男に対してわかったような物言いや嘘ばかり言う。女は男にとって高次的な存在なのである。つまり、女は手の届かない、生身の人間ではないのである。
また、女は女は汚れていると発言する。女に心酔しつつも女を貶める、これぞまさにオリエンタリズムと同様の構造、、オリエンタリズムにおける東洋が実在しないのと同様、作中の女も実在しない。

また、『不滅の女』には何度も同じシーンが繰り返される円環構造をとっている。冒頭に女の微笑みが挿入されていたが、この女は次第にピントが合うように撮られていた。これに対して最後も女の微笑みが挿入されていたが、こちらは次第にピントがボケていった。このことは、次第に女に接近するも女を掴みきれず手放さざるを得なくなった男の状態を示しているのではないか。その最後の女の微笑みのショットの後、船上で大笑いしている女がややローアングルで映され、男が騙されていたことを強調するように作品は終わる。何度も同じシーンが繰り返されていて、男が女の実態を知ろうとすればするほど堂々巡りしてしまい、より分からなくなっている感じを表しているのだろう。

東洋と不滅の女の結びつきもまた感じ取られた。不滅の女は、そのまま作品の舞台であるトルコという国に重ねられているように思われる。
まず女の名前はチューリップを意味するラーレであり、トルコの花はチューリップだ。男の家のトルコ人の召使いの名前もラーレであり、イメージとしての女の浮遊や女の謎めいた素性が感じられる。
もう1人のラーレについて言えば、召使いのラーレに女の所在を聞くシーンで、召使いが螺旋階段の上方、男が下方にいてそれぞれローアングルハイアングルで切り返されていたのが、女は常に手の届かない存在であることを示していた。螺旋階段も迷宮に入り込んでいることの比喩に違いない。螺旋階段と円環構造の類似性も認められる。
また、冒頭に出てきたトルコの踊り子がうなじを見せた瞬間、男は一緒に踊りを見ていた女のうなじを掴む。ここに女と踊り子の同一化が見られる。そのあと女が服を脱ぐとき、踊り子の踊りの仕草の真似をしていたのも女が東洋のイメージを纏っていた結果だと帰着できる。前述した男の視線の先に海ではなく、女の笑顔があったことも、女と東洋の海を重ねていることの証左だろう。
ボードレールも『惡の華』で愛する女性をまだ見ぬ東洋の国に重ねていたし、女と東洋を結びつける発想はよくあることなのかもれしれない。

撮り方についていえば、男の視線のみならず、観客の視線も奪っているかのような横滑りの多用がよかった。あと、我々はカメラに映った登場人物の動きを注視しているのに、カメラの手前を動く人影に遮られる形で次のショットに移行するのも新鮮だった。不滅の女は男だけでなく我々鑑賞者をも惑わしている。
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