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東からのMypageのレビュー・感想・評価

東から(1993年製作の映画)
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ソ連崩壊前夜の東側諸国。
映像が意味を持たなくなるまで長回しで時間を映し出す。意味がなくなった映像には、「見る/見た」という感覚すらも脱色されて、純粋な時間の経過だけが刻まれる。
カメラを車窓から歩道に向けて、車は道路をゆっくりと走っているのだろう。歩道の奥の空き地のような場所で何人かが直立不動に立ち尽くしている。しばらくすると手前の歩道に数十人が集まっていてそのうちのほとんどがカメラの奥の方角をぼんやりと見ている。煙草を吸っている人もいれば、カメラに気づいて何かを喋る人もいる。車道に沿ってそれほどの人が集まって立っている状況はなんなのだろうか。信号待ちなのか、バスを待っているのか。信号待ちにしては人の列が長すぎるようだし、バス待ちにしてはきちんと整列している様子がない。そわそわと忙しそうな人も見当たらない。
それは空港や駅での長回しでも同じで、盛り上がってお喋りする人だったり、カメラに気づいて手を振ったりする人が一人もいないというのは、なんだか違和感すら覚える。子供ですら、駄々をこねたり跳ね回ったりせずに、ぼんやりと壁にもたれて立っているだけ。
だがそれらが、けして演出されたものではないのだろうということは、ショットの長さとそこに映る人々の数の多さから明らかである。これがこのときの東側諸国の誇張なしのほんとうの空気感なのだろう。珍しく左から右へ移動する長回しのなかでは、食品やお菓子の袋を一つ二つずつ持って立ち止まっている人の群れが映される。そのなかにときどき、ペプシコーラのロゴやパナソニックと書かれた袋が見受けられる。

キッチンで立ったままお茶を飲む女性は発言や身振りこそないが、何かぼんやりとものを考えているような目つきがある。あるいはテーブルでなにか工作なのか軽食なのかしている幼い子供ふたりに構わず、流しっぱなしのTVにも注意を向けず、カメラの奥の方の空間を見つめている女性。自分の部屋に一人でいるとき、何もしていない時間というのがあるということを、アケルマンの映画を見ると思い出す。カメラを回す前に被写体とどのようなコミュニケーションをしているのかはわからないが、アケルマンはそういった「時間」をカメラに収めることにこだわる。

内と外。
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