ちょとつ

リトル・マーメイドのちょとつのレビュー・感想・評価

リトル・マーメイド(2023年製作の映画)
1.0
リトル・マーメイドの実写版を公開初日に観に行った。
 
 初めに断っておくが映画をこき下ろしてニタニタ笑っている評論家気取りでは断じてない。
 私がどれほど原作リトル・マーメイド(以下、原作と表記)を愛しているか、その想いの丈を語らずしてこれから吐く暴言をご覧にいれるのは私に対してフェアではないので、少しだけ語りたいと思う。

 私は幼少期をディズニープリンセスのアニメ映画で育ち、中でもリトル・マーメイド以下、原作と表記)が一番お気に入りでビデオを毎日のように観ていた。
 そしていつしかこの作品は、私の人生の伴奏者となっていった。
 例えば、自分のなりたい姿と「あなたのため」と言う周囲のプレッシャーの狭間でもがき、『パート・オブ・ユア・ワールド』がまさに自分の主題歌のように思えてカラオケで歌いまくった10代…
 例えば、親という存在が完璧でないながらもいかに愛に溢れた存在かに気づき、トリトン王がどんな思いでエリックの像を破壊したのか、どんな思いでアリエルを送り出したのか心に迫ってきた20代…
 人生の隣には常にアリエルと彼女の物語がいた。
 可愛いから好き、恋愛ものだから好き、そのような次元を超えた、自身のアイデンティティに関わる作品が、私にとっての原作である。
 前置きが長くなったが、原作に対する私の熱量を少しでも理解していただけたら幸いである。

 ここから先、原作を、そしてディズニーを愛する個人として敢えて辛辣に感想と考察を記す。

ー実写リトル・マーメイドを鑑賞しての感想ー
 「製作者はリトル・マーメイドが嫌いなのか?」と疑う出来栄えだった。鑑賞中、物語に入り込めず、トキメキもせず、どうしてこうなんだという苦悩と悲哀に眉間を寄せながらエンドロールを迎えた。
 
 確かに映画作品としては綺麗な形を保っている。
 不自然でないという点での海中の表現(②にて詳細を後述)や、人魚の泳ぎモーションは流石と言わざるを得ない。また、ハリー・ベリーちゃんの歌声は海の歌姫としての説得力を十二分に持つ素晴らしさだった。あと、個人的にはアースラのアースラ感がセクシーで魅力的で結構好きだ。

 しかし、である。

 そもそも原作ファンを喜ばせようという意思は、本作からは全く感じられない。原作好きであれば期待するあれやこれや(②③にて後述)がいずれもハズレまたはなく肩透かしを食らった。
 もし原作ファンに媚びない方針であれば、私は問いたい。
 原作とは一線を画す別物映画として、単純に映画としての面白みはあるのか。製作者らは果たしてその程度の面白みで集客できると思っているのか。
 本作の中に、「これは面白いはずだ」「これは観客が喜んでくれるはずだ」という視聴者へのサービス精神のもと、製作者が能動的に表現したいと思って選んだ要素はいくつあるのか。
 上からの要請やら事情やらで構成された整合性の取れない点と点を、無理やりつなげてなんとかリトル・マーメイドにしましたという「そこに愛はあるんか?」状態にしか感じられない。

 私がここまで実写版リトル・マーメイドに嫌悪感を抱いた理由を考え、3つほどにまとめてみた。

①見た目の多様性をスジを通して説明しないことからくる否めないポリコレ感
 今作を語る上で切っても切り離せないのが「ポリコレ」と言うワード。
 公開前から主演を黒人が演じることにはかなり賛否両論賑わっていた。
 鑑賞前まで、実は私はアリエルの肌の色には寛容派だった。確かに幼少期に慣れ親しんだ赤毛白い肌のアリエルじゃないけれど、歌声が素晴らしくて天真爛漫なアリエルならばそれでいいじゃないか。アリエルの肌の色それ自体は、私にとって本質ではなく表面的な問題ですらある。
 しかし問題はもっと深刻で、アリエルを黒人にしたことによるひずみが、作品全体にモヤのように漂っていることだ。
 理解ある視聴者として飲み込むべき”そういう設定”があまりに多すぎて、ストーリーに没入することができなかったのである。

〈モヤその1:父親トリトン王〉
 主人公を黒人にするならばその父親であるトリトンは当然黒人の見た目をしているはず。しかしどうも違うようだ。
 いや待てよ。トリトンのような外見の父親からも黒人の血が入れば完全に黒人のような見た目に生まれる可能性があるのかもしれない。判別のつかないハーフも存在するしな。危ない危ない。単一民族だからと言って想像力を働かせない言い訳にはならない。

〈モヤその2:姉妹〉
 1人(1匹)も血が繋がっているようには見えない女人魚達、他の種族の人魚姫が集っているのかと思いきや、実はアリエルの姉達であることが判明してびっくり。詳しい説明は一切ないが、全員母親が違ってそれぞれの母親の外見だけを色濃く引き継いだのか。トリトンは7つの海の違う女人魚と子を成したという”設定”なのね。危ない危ない。
 であれば他の姉妹の母親はどこにいるのだろう。
 そんなことを考えていると作中、アジア系の姉妹(記憶が曖昧だが)がアリエルを嗜める際「音楽と人間のせいで"お母様"を失った」と言っていた「母親」とは、アジア系にとってもアリエルにとっても”母親”だったと解釈すればいいのだろうか。あるいは、トリトン王が結婚と浮気と離婚とを繰り返し、末娘のアリエルの母親が他の姉妹にとっても最後の継母という、ヘンリー8世ばりのだらしない王という解釈もできる。姉のどれかは婚外子なのか。
 はたまた人魚とは人間の理を超越した存在で、最早本作では親と子供の血のつながりは、外見では判断できないという前提を敷いているのだろうか。
 気にするなと言われれば気にしないこともできるかできないかレベルの、ちょっとした違和感が積み上がっていく。
 (しかしここまでは設定上の都合と、なんとか飲み込むこともできなくはない。
 世界中の海を統べるトリトンの次の王位継承者たちが全員白人では、なんか例えばアジア由来の魚とかインド洋沖のカメとかに舐められるとかあるんでしょう。知らんけど。)

〈モヤその3:エリック王子〉
 極めつきはエリック王子の出自である。エリックは、海で拾われた白人の王子という新設定が唐突に登場した。そして育ての親である女王は黒人である。
 原作では明確に血の繋がりは描かれておらず、この新設定にどんな意味があるのかその後の物語を注意深く観察したが、意味と思われる明確な論拠は私の知る限り見つけられなかった。

 もしあるとすれば、2つの説が考えられる。

〔1:共通点なんぼあってもいい説〕
 アリエルとエリックの共通点を描くためと仮定してみる。腹の底から共感し合うことこそ恋愛でしょう。

 しかし、出鼻は挫かれる。2人の本質は若干異なるのだ。

 アリエルは海にルーツがあり、そこが生まれながらの居場所であるからこそ、そうではない別世界(陸の世界)に強烈に惹かれた。
 一方、エリックは王国に実はルーツはなくルーツは別世界(国外)にある。いわば根無草なのである。だから彼が国外に目を向けるのは至極当然のことに思える。アリエルほど周囲を困惑させないだろう。
 もし新設定が2人を共感させるために生まれたのだとしたら、なんとも微妙な設定だと言わざるを得ない。変に設定を変えず、”王国で生まれた”エリックが国外に可能性を見出し旅を繰り返すという設定であるほうが、「ルーツを超えて別世界に行きたい2人」というストーリーで、よっぽどしっくりくる。
 あるいは、2人の「自分の世界と別世界の架け橋になりたい」という思いを共通点として捉えたとしても、新設定はあまり関係ない。だって王国で生まれたエリックでも、国外との架け橋になることはできるから。
 よってこの説は不採用。

〔2:エリックの苦悩深いけど乗り越えて結局いい男説〕
 エリックの人間性描写を深めるためとも仮定してみる。
 「血のつながらない自分を王子として育ててくれた王夫妻への恩と、生まれ故郷を探し求めて国外を旅したいという思いで板挟みになっている」エリックを描写し、『ゴーザディスタンス』でも歌わせればエリックは深みのあるディズニープリンスになっていただろう。

 しかしまたもそうでもないようだ。
 エリックには、そこら辺の葛藤はさっぱりないっぽいのだ。国王になることは受け入れている様子であり、その証拠に航海は国のためという大義名分を振りかざしている。
 よってこの説も不採用。

 つまり、エリックはみなしご設定を物語的に説明できない以上、結局は穿った見方をせざるを得ないのだ。
 「黒人の女王を出すために血のつながらない設定にしたのか」と。
 もうこうなってくると、世間を賑わせているポリコレ説を否定できない。
 血が繋がっているようにはどうにも見えない父親トリトン王も姉妹たちも、黒人のアリエルも結局、全部ダイバーシティやら差別やらアメリカ特有のポリティカルコレクトネスとやらのせいじゃん、あーーーーあ。と。

 ファンタジーにおいて、”そういう設定”をつべこべ言わずに受け入れる姿勢を求められることは多々ある。ファンタジーとはそういうものですらある。
 しかし用法用量を守り、ファンタジーながらも”一定の筋”を通す必要があると、私は思う。
 映画史上最も意外性のあるダースベイダーとルーク親子でさえ、人種、少なくともルーツは同じである。
 本作においては、主演に黒人をキャスティングするならば、そこら辺の血筋の説得力と一貫性を徹底してこそ一流のストーリーテリングなのではなかろうか。

 ディズニー内部で、この血筋問題、人種問題に対してどのような議論がなされたのか、これでGOとなった背景が心の底から気になる。製作者の意図を理解したところで作品に対する評価は変わらないが、せめて大事な原作をポリコレ守ってますよアピールの手段にされたという私の被害妄想を落ち着かせて欲しい。


②海の世界に神秘性が感じられない、全然楽しそうじゃない
〈マーメイドラグーンしょぼい件〉
 日本人には馴染みがあるのでその美しさが心に刻まれていると思うのだが、マーメイドラグーンがしょぼすぎて泣きたくなってしまった。
 原作においてマーメイドラグーン登場シーンは、冒頭100秒を使い、魚が海に潜り人魚が集い、荘厳で華麗なるマーメイドラグーンが現れるまでをドラマチックに描く見事なシークエンスなのだが、それを超えたとは到底思えない。
 本作でマーメイドラグーンと思しき城が見えるシーンが冒頭にあるが、苔むした黒い岩の塊の中が現れたところで何の感慨も湧かない。全然ドラマチックじゃない。
 海の中の王国という、例えるなら『アナと雪の女王』における氷の城のような象徴的な存在であるはずなのに、人魚の王国の存在すら疑わしいようなガランとした隙間だらけの岩の塊がマーメイドラグーンだなんて、信じたくない。

〈海の中を楽園と感じられない件〉
 全体的に海の中が暗くて全然楽しそうじゃない。
 海中の表現としては実際の海に忠実という点では素晴らしいのだが、これをもってしてなぜセバスチャンは「海の中が一番楽しい」と主張できるのかと首を捻りたくなる。
 
 今年公開された『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』の水中の表現の方が暖かそうで楽園感が伝わってくる。
 そもそも「人魚」という迷信とも神話とも言われるようなファンタジーな生き物が登場するのに、人魚以外の海の要素が全てリアリスティックであるのはなぜか。全然人魚の神秘性を感じることができない。

 しかしこれはこれで、アリエルの心情を表現して明るく楽しい陸の世界との対比として機能しているのだろうか。
 海の世界も陸と同じくらい魅力的なことを視聴者にわかってもらう必要があると考える私としては、あまりピンとこないが。

〈人魚の生活が何もわからない〉
 アリエルの家族以外の人魚の描写もほとんどなく、人魚が主に何をして海で過ごしているか全くわからない。そもそも登場する人魚の数が少なく、海の王のお膝下としてはだいぶ寂しい。
原作にも人魚の生活について描写はないが、プラス1時間ほども上映時間があるのであればここを深掘りしても良いのではないか。そういったアリエルの住む世界の情報がない状態では、(少なくとも「仕事はせずのんびりと暮らす」とアンダー・ザ・シーで歌われているため仕事はないのであろうか)全然人魚でいることの楽しさが感じられず、人間の世界に憧れるのがアリエルだけというのが疑問だ。


③脇を固める海鮮キャラクターに魅力を感じられない
 ディズニーアニメの真骨頂は「本来感情を持つことのない無生物を、仕草や表情であたかも心があるように見せる技法」にあると思っていたのだが本作ではそれが全然感じられなかった。
 セバスチャンとフランダーのことである。
 セバスチャンのような声をした横歩きのカニと、フランダーのような声をした熱帯魚は、手書きアニメーションで一世を風靡したディズニーのアニメーターたちに対する冒涜だと思う。生き物に声を当てればキャラクターになるわけではない。

 脇を固めるキャラクターの魅力不足は、「アンダー・ザ・シー」の場面で最も感じられた。
 原作ではセバスチャンとフランダー以外にも意識があって”海の仲間”として個性があって、みんなで心の底から海の生活を楽しんでいたというのに、本作では物言わず統制の取れた動きで踊る”海の生物”然としていて、明らかに”仲間”とは思えない。


ー終わりにー
 私はディズニーという世界観が好きだ。そして会社としてのディズニー社も好きだ。「偉大な過去の作品を守ること」、そして「新しい物語を紡ぐこと」。そのためなら少々強引な経営手法も裏取引も、仕方ないと思っている。
 しかし、今回の実写化はどちらも達成できていないように感じる。
 裏の事情は私にはわからない。最上部からのいきなりのポリコレのお達しがあってどうしようもなかったのかもしれない。マーメイドラグーンを荘厳に描くには予算が足りなかったのかもしれない。映画だってビジネスだもの、色々な大人の事情はおありでしょうとは思うものの、この「偉大な過去の作品を守ること」「新しい物語を紡ぐこと」の2点だけは、譲らないディズニーであってほしい。ディズニーのファンとして、そして一顧客として、たとえ小さな声であってもディズニーが聞き入れてくれる万に一つの可能性を願って、筆を置く。
ちょとつ

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