青雨

ブラック・スワンの青雨のレビュー・感想・評価

ブラック・スワン(2010年製作の映画)
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オイディプス神話のように、象徴的な意味での父殺しを描いた名作は『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督, 1982年)をはじめ数多くあるいっぽうで、母殺しを扱った作品がそれほど多くないのは、ジェンダー論的な意味での社会性の他にも、おそらく女性性に宿る深みもあるのではないか。

その象徴的な母殺しがどのようなものであるかを、この作品は上手く描き出しているように思う。ミヒャエル・ハネケが監督した『ピアニスト』(イザベル・ユペール主演, 2001年)と共に思い浮かべることが多く、また同様の風景は、『ノクターナル・アニマルズ』(トム・フォード監督, 2016年)にも変奏されている。



僕は男性であるため、「父息子」という親子関係の渦中にあり、「母娘」という親子関係については、実母と姉、妻と義母、さらには友人・知人・同僚・取引先の女性たち(及びその母親)の関係として、間接的にこれまで接してきた。

そこにある関係は、「父息子」という奇妙な関係とは奇妙さが異なっており、僕という存在を妻に受け入れてもらうためには「父息子」の関係が外せないのと同様に、妻という人間を僕が受け入れるためには、やはり「母娘」の関係を外すわけにはいかないところがあった。

僕自身は、自覚的に格闘してきた経緯があったいっぽうで、妻にはそうした自覚がなかった。しかしそれは、母親の引力の中にいるために気づかないだけであり、無自覚ながらも彼女が何かに苦しむ時には、その源泉には必ず「母娘」の関係があった。

たとえば子育ての際にも、目に見えないうごめきのように、それは彼女を苦しめた(僕に課せられた祝福と呪いは、そのことを直感的に可視化する)。そして夫婦になるということは、おそらくは生涯をかけてそうしたお互いの軛(くびき)を理解し、うまくいくなら少しずつ取り払っていくことになるのだろうと僕は思っている。

それは『白鳥の湖』の呪いのように、1人で解くことは原理的に難しく出来ている。

僕にとって妻と真剣に向き合うことは、そうした妻の「母娘」をはじめとする、彼女の女性性と向き合うことを意味する。妻もまた、この映画に描かれるように、僕の知らない楽屋で鏡の破片を手にし、象徴的な血を流したはずであり、またそれは、流されなければならない種類の血だった。

そのため、この映画の終わり方が決してバッド・エンドでないことは、妻という抜き差しならないパートナーと真剣に向き合う、世界中の夫たちが知っているように思う。
青雨

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