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セールスマンのinuのレビュー・感想・評価

セールスマン(2016年製作の映画)
5.0
—— 暴力はどこからくる。
平成は戦争こそないものの、今まで見えてこなかった問題が顕在化。それぞれに名前のついた時代であった。そのうちの一つに男女の不平等の問題がある。先日の上野千鶴子氏による東大入学式での祝辞は、女性が不当な扱いを受ける不平等な社会を言語化。社会に衝撃を与えた。米国の調査で現代の人々は男性であっても70年代の女性よりもフェミニスト的であることが明らかになっている。それでもなお日本に限らず多くの国が未だ女性に不利なものであることは言うまでもない。『セールスマン』(2016,イラン,アスガル・ファルハディ監督*)はイランの社会構造を通して暴力の根源を探る映画だ。物語はアメリカの名戯曲『セールスマンの死』の筋書きをなぞるような構成になっている。78年に起こったイスラーム革命**後国家的なイスラーム化を推し進め、アメリカと敵対するイラン。イスラーム共和国であるために、女性の権利は宗教的解釈により著しく制限されている。こうした状況を知る我々はイランという国を前近代的で、反欧米的な社会だという色眼鏡を通して映画を鑑賞する。ところが映し出されるのは極めて都会的な、まるで東京のような生活だ。暮らしぶりは我々の何も変わらない。Wi-Fiのルーターを取り付けるシーン、子供がスポンジボブのおもちゃを欲しがるシーン、どれも西洋的な暮らしぶりを象徴している。この映画ではそんなイランがいかに女性を軽んじ、男性がヘゲモニーを握る構造になっているかと同時に、暴力の根幹には「男性的」な価値観があるのではないかという問いかけがなされる。また、それは決してイスラームだからではなく西洋のどの国を取ったところで同じようなものであることを暗に伝える。ボーヴォワールは『第二の性』で「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言った。男もまたそうなのではないだろうか。暴力は雄々しさの象徴であり、男性像に重なるものだという主張はかなり的を射たものであるように思う。女は女の虚像を必死で追い、男は男の像を必死で追う。こんなクソくだらない時代遅れの感覚を我々は捨てなければならない。質的な両性およびLGBT、すべての人々の平等は「虚像」を壊すことから始まると思う。女性は男性の欲情を煽るのでヘジャーブを被り、化粧をすべきでないといったような考え方がイスラーム(の解釈)にはある。これはイスラームがおかしいのではない。新約聖書のエピソードに、ユダヤ人のレイプされた女性に皆で寄ってたかって石を投げる風習があってキリストがそれを静止したというのがある。この世界には古くからレイプされても女性が性的なのが悪いといったバカバカしい考えが歴然とあるわけだ。実際、近年 #Metoo を発端に日本でも被害を訴えた女性がいたが、犯人が捕まるどころか被害者がバッシングを浴びている。さらにはポニーテールは性的だからダメ!という校則のある学校が存在するらしい。宗教など関係なく、どの社会にも常にどうにもならない性による不平等が在るのだ。「虚像」は社会構造を大きく歪める、最大の暴力装置だ。
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