河

デジレの河のレビュー・感想・評価

デジレ(1937年製作の映画)
4.6
この人の映画はどれも、サイレント映画ではモンタージュや役者の動きで担保されていた多幸感的な何かを映画全体の情報量を変化させずに言葉に変換しているような感覚がある。『夢を見ましょう』ではその視覚的な情報量を最小限にして会話劇を際立たせていて、『カドリーユ』ではその二つが調和することなくぶつかりあっていて、この映画では調和した上で主軸が会話劇になっているように感じた。

主人の世界とその召使の空間が別個に上下関係と共に存在している。召使側からはその主人の空間を欲望しつつ覗き見る・盗み聞く形になっていて、主人達からは自分達の空間に入ってきた時の召使しか見えない。召使は主人を人として見るけど主人は召使をその役割でしか見ていない。そういう舞台設定の元、サッシャギトリ演じるデジレの女主人に対するモノローグをきっかけにして、互いに夢を媒介にして欲望し合うようになる。この関係性が寝言によってそれぞれ自分の属する空間で知られることになる。女主人が欲望に自覚的になった時に女主人から召使を呼ぶベルが鳴り響く。その関係性は住む世界の違い、役割と両立しないのでデジレは主人の元から去ることになる。
個人で完結した空間として夢や欲望があって、その上に主人と召使の間で完結した空間がある。寝言や壁越しに聞こえる声っていう声によって本来空間内で完結してた欲望が他の空間へ漏れていくことで均衡が崩れる。その展開が、この人の映画の会話によってのみドライブされるっていう性質と一致している。
それぞれの空間での緊張が高まりきった後訪れる来客シーンで、主人側は来客と会話するのに対して、召使はその役割として動くことしかできず会話ができない。主人側の来客は耳が不自由なので、その人を入れた会話と入れない会話の二つが並行に存在する。召使側は映画的なコミカルな動きをして、デジレはその中で動きだけで女主人への欲望が見えるようになっている。この多重的な構造によって視覚的な良さと会話的な良さを両立したようなクライマックスを経て、この人の十八番のようなモノローグに移ることで前半を反復する展開が最高。
サッシャギトリが魔法みたいに役に変身してそこから役者を読み上げるところに始まり、最後のセリフと連動して両手をあげた瞬間にカメラが引くことでその両手をあげたポーズが演劇の終わりのポーズに変化する。この映画と共に演劇が幻想のように現れて消えるメタ的な感覚も本当に良かった。
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