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映画よ、さようならのGenusCyonのレビュー・感想・評価

映画よ、さようなら(2010年製作の映画)
4.0
 「まず、映画を知ることは
記憶することではない

俳優や監督の作品を
年代順に言える事とも違う

博識であることや事々辞書のようなものとも、、、

時には重要な場合もある

偉大な映画監督の軌跡をしることが。

だが必要なのは記憶力でも
過分な情報でもない

まずはそこを区別する

映画とは数字やデータを集めたものではない

データは常に現実を隠そうとするものだ

データは詰まるところ情報を統合し
具体化することに他ならない

1番難しいのは方法を解明することだ

豊かな観客はどう生まれるか
豊かさを育むにはもちろん
まずは映画や創造的な作品を見ることが必要だ

では
1人の観客に映画が響くとはどういうことか

どう表現すればいいのか

"教育された観客"は誤った表現だから、
敏感で繊細な観客だ

各構図との関係性、音楽、一連の映像の動きが一致している。など

この分析は何のため?
このシーケンスが何故観客に衝撃を与えるのか

理解するためか?観客の注目をひいているのはスクリーンの中でだれか、誰が緊張感をもたらすのか。

この全ては初見では知覚できない
これは知識ではない

単に作品の映画的構造を明確に指摘してるだけだ

それは文学や造形作品、作曲でも同じことだろう

何に注意を払うのか?
映画とは筋を語るものではない

人を動かすものだ
問題はその映画的な表現が観客の心をどう動かすかだ。

、、、」

(映画内のセリフ)

ってくらいツラツラと映画好きオタクのセリフを浴びせられる笑笑笑



これを受けて僕が感じることは

分かりにくい言葉だらけだが
どの業界にも必ずはいるであろう
その世界での専門家達やオタクが語る言葉には、その分野を長い時間掛け極めてきた人だからこそ言える一つの"正しさ"がある。ということ

だがその言葉の意味に理解が到達できない一般客や僕らには、共通言語がないだけでその意味を単に理解しようとせず、ただただ跳ね除けてしまう"愚かさ"もあると感じる。

これは映画以外の様々な事においても置き換えられる。

このご時世多方面から感じている。

ある人が、ある分野について専門性を持ち長い年月考えた結果発する言葉には少なからず真実や言霊がある。
様々な経験や知識から、言葉だけでは伝わらない"真実"がそこには潜んでいる。、と考えてみる

そこを読み取り、全てを簡単に批判して跳ね除けず、真実の部分のみでも読み解き信頼してみる寛容性は、簡単に意味を持たず共感を呼ぶ真意理屈のみでねじ曲げられる現代。多用性溢れる社会の中で僕自身も細かく読み解き大切にしていきたい感覚だと改めて気付かされる。

「嘘とは普遍的 皆嘘をつく

嘘をつくべきだ
良識のある嘘は賢明なことだ

人のために嘘をつくこと
嘘をつくなら健全で

人間的な嘘を率直につく
価値のある嘘を堂々とだ

自分勝手で残酷な嘘はダメだ

ダメな嘘にあるのは
ひねくれと恐れ

恥じる嘘をつかないこと
嘘は高貴なもの

この現実から世界を解放する
我々を偉大にする
(確かにそうかも)

善良に美しくする

もういうことはない
誰が規則を作れる?
嘘をつくべきか否かの規則を
それを誠実に遂行できるかは君たち一般の法律家だ

君たちは長期による嘘の巨匠になる

、、、」

とも語られる。

難しいけど、今の時代についてみんなが賢明に、真剣に考えてるからこそ考えの違いに常にぶつかってしまう。

SNSでも歓喜や違いの壁に苦しんでる。
みな違えど真剣なのは変わりない。

この映画の物語世界での、いわゆる「映画はおわってしまった。」コロナ世界とは関係の無い世界で苦しむ人の出来事を(誰も未だ想像してないまま)評価してるから。

どうか厳しい時代を歩む、この時代を生きる僕らの世界は多くの事を共感し寛容し乗り越え花開くように

ラストシーンになるが
どんなに厳しい状況でも自身で選択し、
自身にとって幸福な選択はできると思う
GenusCyon

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