odyss

安城家の舞踏會のodyssのレビュー・感想・評価

安城家の舞踏會(1947年製作の映画)
3.5
【肖像画の意味】

20年以上前に名画座で見たきりでした。BS録画にて再鑑賞。

最初のあたりは説明的なセリフが多くて、ちょっと硬いと言うか、ヘタクソだなと思えるけれど、そのうち流れに乗ってきて作品内に入り込めるようになります。戦後間もない頃に華族制度が廃止され、デラックスな屋敷も人手に渡ってしまう華族が、最後に舞踏会を開くというお話。

旧華族は私の親戚にはもちろん、知り合いにもいないので実際がどうだったのかは知りませんが、イメージとしての華族はこれでまあいいんでしょうね。大広間にはギリシア建築ばりの柱がある。当主である伯爵はむかしパリに遊学して絵を学んだという設定。三島由紀夫が小説の中で或る人物に「日本で育ちがいいということは、西洋式の生活を体で知っているというだけのことなんだからね」というセリフを吐かせたことが想起されます。

しかし当主が絵を趣味にしていて肖像画がこの映画によく出てくるのには、それなりの意味があると思います。肖像画はこの映画では案外大事な役割を果たしているのです。大広間には当主の父の軍服姿の肖像画が掛かっている。当主の姉が、日露戦争の記憶を語るシーンもある。日露戦争は1904~05年ですから、第二次世界大戦終了の40年前のこと。この映画は1947年に作られていますから、日露戦争を記憶している人たちはまだかなりいたはずです。そしてロシアとの国運をかけた戦争が輝かしい記憶であったとすれば、当主の父の軍服姿はその象徴だったでしょう。敗戦によって華族制度も廃止されるという打ちひしがれた時代との対比が鮮明になるのです。

また、自堕落な生活を送っている長男の部屋には、有名な「裸体のマハ」の絵(模写)が飾ってある。女中に手をつけていて、遊び呆けているらしい長男の生活ぶりが暗示されているのです。

そして当主の部屋には、完成していない次女(原節子)の肖像画が画架に置かれている。没落していく安城家の中で唯一前向きに生きている次女はこの映画の中心ですが、未完成の肖像画はおそらく新しい時代に前向きに生きていくであろう次女の未来がまだ定まっていないことを暗示しているのではないでしょうか。

最後を明るく締めくくるのは映画というジャンルの制約上やむを得ないでしょうが、自堕落な長男まで改悛してしまうのはちょっとやりすぎでしょう。彼はラストまで自堕落を通したほうがよかったと思いました。

なお、作中で伯爵の先祖が四十数万石の大名であったことを暗示するセリフが出てきますが、私は華族制度のことはよくは知らないのですけれども、小田部雄次『華族』(中公新書)によると、十五万石以上の大名は侯爵になっているはずではないでしょうか。もっとも戊辰戦争で幕府方についた大名は賊軍扱いで規定より低い爵位にあまんじた場合もあったらしいので、安城家も賊軍だったのかも知れませんが。
odyss

odyss