タック

輝ける青春のタックのレビュー・感想・評価

輝ける青春(2003年製作の映画)
4.2
ジョルダーナはカラーティ家を通して何を描き出したのか。
この家族の物語の最大の事件は?それはマッテオの死だった。だが、ジョルダーナが描いたものは死だけではなかった。この映画ではむしろ、二コラ・マッテオとその家族、そして彼らの子供たちへと受け継がれていく「命」が印象付けられていた。
死と受け継がれていく命、この中で読み取れたジョルダーナの思想は、私は人間賛歌であったのではないかと考える。人間賛歌と言えばあまりに漠然としているからよりもっと言えば、ジョルダーナの根底に流れているものは、政治イデオロギーを超えた全ての人への慈しみがではないかと感じる。それについて以下で論じて行きたい。

慈しみとは一つには、考察や検証を重ねて他者を開示する態度と言うよりは他者をそのまま受容する態度と言うことが出来る。それは物語最大の事件であるマッテオの死に見られるものである。
マッテオは物語の始まりからその最期まで、なぜあんなにも苦悩し自分を罰するように生きたのであろう。彼は新年と共に飛び降りその生涯に自ら幕を下ろすのであるが、彼の自殺は劇的なものではなく非常に静かなものであった。というのは、彼の自殺は飛び降りという一瞬の動作によって達成されはするが、その死への緩慢な道のりは物語の冒頭から始まっていたからだ。彼の死の理由、それは最後まで語られることはなかったため、その真の理由に関して断定することは出来ない。それは若者の高潔たらんとする望みと実際の自己との乖離とすることも出来るだろうが、結局は推測の域を出ないものだ。ただ一ついえることは彼が死への行程にあることは、周囲の人間にもそれと分かることであったが、彼の家族も監督自身もその行動に注や解釈を加えることはなかったということである。かといって彼の行動に対して無関心であったわけではなく、常に彼のそばにいようとし続けていた。結果としてマッテオはその救いの手を振り払うようにして、自殺を遂げたわけだがこの監督も含めた周囲の人間による彼を受容する態度は慈しみの基礎と言えるものではないだろうか。

また二つ目に提示したいのは、この映画で描かれた登場人物に完璧な存在は一人としていないことだ。皆が傷ついた存在なのである。ニコラはテロに傾倒していくジュリアへの戸惑いと怒り、そしてそれでも尚彼女を愛し続けることに傷ついていた。そしてそのジュリアも旅団としての活動と母としての愛や自責の念の中でまた傷ついていた。その他の登場人物も親子の確執・虐待・喪失・失業など様々な理由によって痛みを持っている。そして、その痛みを持った人々は多様で、対照的である。医師と患者、学生運動の闘士・政治犯と警官、親と子、ホワイトカラーとブルーカラーといった具合にである。 ジョルダーナはこの映画の中で、彼自身の政治に対する関心をまったく隠すことはなかったが、同時に散見するイデオロギーに対して評価を下す事はまったくしていない。むしろそれぞれの立場で人びとがあえぎながら生きていることを描いている。それは学生運動の闘士であったニコラ、闘争を続けたジュリア、体制側にいたマッテオとそれぞれの苦悩を描いていたことに特徴的である。 ジョルダーナは全ての人が苦しみながらも生きていくその姿に評価を下すことなく、受容している。私は彼は評価を下さなかったのではなく、評価を下せなくなったのではないかと思う。彼は政治的意識の非常に高い監督であるが、人間存在というものも見つめたときに、人が懸命に生きているその姿そのものの美しさに、イデオロギーを越えた価値を認めたのではないか。だからこそこの「輝ける青春」の中で家族というもっとも基本的な単位をを中心とした人間賛歌を、慈しみの目をもって描いたのではないかと感じた。
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