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映画 夜空はいつでも最高密度の青色だのstkei3110のネタバレレビュー・内容・結末

4.3

このレビューはネタバレを含みます

石井裕也に泣かされたのは二度目になるのだろうか。氏の作品にある、自分の内面を抉られるような厭悪感と共振がそうさせるのかもしれない。

そんな個人的心情はさておき、映画について。
詩集が原作ということもあり、言葉が各所で扱われる映画となっています。象徴的なのは、池松壮亮が自宅で吐き出す、生活費の言葉や石橋演じる女性に会いたいという感情の言葉と、世界情勢や世事の単語レベルのワードが、並列的に夜空を映す窓に青文字で書き表されるところ。他にも、いったん喋り言葉が出始めたら埋め合わせずにはいられない性格や、石橋静河が問う愛や死の概念的問いについて。言葉が映像をつくる効果を果たしています。

けれどもこの映画の強みは、それを映像に落とし込んだところ。
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』
このタイトルについて、自分なりにあらためてこの映画に落とし込んでみる。
夜空=黒や暗闇。それは石橋静河の田舎での自転車のシーンでつぶやかれた「東京には黒がないからね」の黒色だ。それは二人(ひいては東京)の心の暗さを意味する。次に最高密度。密度の反対語は端的に言えば”隙間”だろう。つまり二人が抱えてる心の隙間。言葉では埋め合わせられない内面の間隙を意味してるのだろう。もっと言うと、埋め合わせられない他者の死や喪失、そのぽっかりとした穴をも意味するのかもしれない。最高密度とは、その反対語だ。最後に、青色。これは作中で冒頭から出てくる夜景の赤やタバコの火、そして池松壮亮が腕に流したり、石橋の愛の言葉に紐付かれた血というイメージの反対語だ。つまり赤と対置する色の青色を意味する。
そう、この映画は言葉の映画であると同時に、実は彩色が至る所に施された極めて映像的な映画でもあるのだ。言葉が色に意味をつくり、意味が映像に比喩や換喩、直喩を付与する。わかりやすいのはタバコの火と夜景の赤の接続や、池松壮亮と石橋静河の青と赤の対比(特にラスト直前の二人のバッグ。池松壮亮は青で石橋静河は赤とか、そういう細かな演出ですね)であり、あるいはもっと細かなものでは、池松壮亮の腕の血(包帯の場所)が、病院喫煙所の壁のサビに絶妙に隣接するところ。こうした視覚的要素があらゆる場面で意味をなす。
これを紐解くと、暗い夜空に隙間なく最高密度に広がる青色というのは、畢竟、石橋静河の心に宿った池松壮亮という青い灯火と解釈できる。だからタバコの火が作中で頻繁に消されるし、二人が最後に見るがんばれの歌手の車は青だし、ラスト直前の夜の二人の部屋では石橋静河が水(青のイメージ)をようやく飲みこむ(受け入れる)のだ。
こうした色のせめぎ合いと包摂が作中で繰り広げられ、ようやくラストで夜空が明けてゆく。水を与えられた花が芽を出し、その周りには青の灰皿や水の入ったコップが画面を囲む。ほんのり光る火が、さらに青色を引き立たせる。二人の間に、最高密度の青色が広がる。まさに二人の(そして東京の)夜空に青色が瞬くよう作品は帰結する。この結びに、僕はシンプルに称賛を捧げたいと思います。
震災の扱いに多少の疑義はあるし、過去作のいくつかにも個人的な疑義はあるけれど、やはりこの手の作品を観ると思わざるを得ないです。映画監督石井裕也は最高です。
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