百合

ぼくたちのチームの百合のレビュー・感想・評価

ぼくたちのチーム(2016年製作の映画)
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「自分を偽ったら、誰が自分になるんだ」

アイルランド映画の快作!ポップな色調に音楽、ストーリー展開もノリやすく、短くまとめられていてかなり観やすい。
LGBTものというか、排斥と包摂の話であると考える。物語が展開するのは基盤がスポ根な寄宿学校。そこへ上手く入っていけない主人公はひ弱、音楽好き、そして当然のようにアンチ・スポーツというキャラクター。(ここらへんそこはかとなくキャッチャーインザライを彷彿とさせるよね)彼は転校早々それらの点を見出され「ゲイ」のレッテルを貼られていじめにあう。そこへやってきたもう一人の主人公は対照的に、ゴツい身体のラグビーのスター選手。彼らはルームメイトとして冷えた関係になるのだが、彼らの間に築かれた“ベルリンの壁”を壊すのが3人目の主人公であるアンドリュー・スコット。この役柄が「国語教師」というのはベストだったと思う。スポーツ振興校においては文科系の極みである国語教師も“異端”なのだ。そうして物語が進むうち、彼自身ももうひとつ“異端”な点を抱えていることが明かされる。
ゲイという自らのセクシュアリティを隠しながら生徒たちに「自分を偽るな!」と叫ぶアンドリュー・スコットの姿は悲痛なまでに映る。隠すことと偽ることは違う、いつかもっといい時代が来る、と涙ながらに話すシーンも哀切だ。
学校という閉鎖空間は、人間としての愛とセクシュアリティとしての愛が混同されやすい空間である。ナードな主人公は自らのセクシュアリティを拒絶されたせいで、人間愛さえも拒む。しかし自分が引用した曲を褒めてくれたルームメイトに、彼は次第に人間愛を覚えてゆく。「ラグビー部は応援してないけど、お前のことは応援してる。」しかしその別を許さない周囲は、2人の友情さえをも引き裂こうとする。学校という特殊な空間を仮構して描かれるこの10代の迷走は、しかし2017年の今でもいたるところで起きている混迷だ。
ゲイであることをバラされ傷つきラグビーの決勝戦から逃げ出した主人公だったが、親友に連れ戻されチームメイトに自分をもう一度受け入れてくれるように頼む。「僕はゲイだが、みんなとプレーがしたい」最後まで抵抗したのはコーチ一人だったが、優勝を勝ち取った後、彼は自らコーチの元へ握手を求めにゆくのだ。つまりここではマイノリティの包摂と許しが描かれているのだと思う。包摂を乞い、それまでの排斥の仕打ちを許すこと。わたしたちはみな異なった人間だが、それでもチームなのだと宣言すること。その難しさと美しさが描かれているのだ。
しかしわたしは悪役を一手に引き受けたコーチの姿にこそ人間を見る。俺たちはチームだと言ったそばから、戦場ではたった一人になって戦えと鼓舞する。ゲイはふさわしくないと排除し、俺たちはみなそれぞれ問題を抱えていると認める。このダブルバインド的姿勢が我々を取り巻くリアルであるし、我々が気を抜けば陥る状態なのだ。
強さと弱さという視点から見ると、多くの問題を浮き彫りにした作品であるとも思う。つまり包摂を求められたのも、主人公がラグビーという“強さ”を持っていたからだ。しかしナードであるもう一人の主人公は何も持っていない“弱い”人間だ。(そのために周囲を小馬鹿にして、人間愛を拒むやり方でひねくれて“強く”なるしかなかった。)しかしいざアウティングの目にあい逃げ出した者を救うのは弱者であったはずの主人公だ。ビート、打ち果たされた者だけが持つ“強さ”。そんな主人公だとわたしは思う。
自分の欠損を埋めるように、生徒に自らをさらけ出すことを求める国語教師のアンドリュー・スコットは、自分の伴侶を校長に紹介するシーンが最後だ。そうしてそれまではどちらかというと否定的に見ていたラグビーの試合を応援し、勝利を祝うところで彼らは退場する。自らをさらけ出して、ぼくたちはみな異なった人間であるけれど、それでもぼくたちは同じチームなのだと、黄色と紫の旗が一面に踊る画面は訴えて来る。
ネズミのように歌うな!と怒るシーンが好きでした。
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