ユウ

ムーンライトのユウのネタバレレビュー・内容・結末

ムーンライト(2016年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

 『ラ・ラ・ランド』を打ち負かしてアカデミー作品賞を獲得し話題となった本作、ようやく観られました。予想通りとても美しい物語でしたが、そこに様々な問題が織り込まれています。

 物語の軸になるのはシャロン自身の性の問題。社会から求められる同調の圧力。特に”男らしさ”という圧力が、親、友達、それら含めた環境からのし掛かります。学校という社会に組み込まれ、その圧力に戸惑うシャロン。売人のフアンから自分らしさについて教えられますが、それで易々と心持ちが変わるはずもなく。
高校生になり、友人のケヴィンの性事情から一種のトラウマを抱えつつも彼と思いを通じ合わせます。しかし、同性愛というマイノリティーの絆は同調、カーストという社会の構造には吹いて飛ばされるほど、無力。
ケヴィンに何度殴られても立ち上がるシャロンのシーンは印象的でした。背負うべき業としてシャロンが立ち塞がり、ここまで悪いイメージのなかったケヴィンに一気に人間味を持たせた。

 もうひとつ、家庭の問題。母ポーラは薬物依存、典型的なネグレクトです。その後ろめたさからなのか、事なかれ主義、コントロール願望をシャロンに押しつけます。
これだけなら単なる酷い親、切り捨てれば良いだけ。しかしポーラは完全に悪人ではなく、ひとかけらの母性を確かに有している。きっと彼を愛する気持ち自体も本物なのでしょう。その不完全さが逆に切れない呪いとしてシャロンを縛りつけ、自分らしさを奪ってしまう。
こういう排他的な行動、コントロール願望は現代の親御さんが陥りがちなケースなのだと思います。性の問題もそうですが、この映画は現代の、個人が抱える心理の問題についてありのままに描写しているなと感じます。このようなアイデンティティとその選択圧となりうる環境の問題は日本でも時々耳にすることですが、これは世界各国で共感される問題なのだなと。

 大人になったシャロンの筋骨隆々とした身体。これほど悲しい”男らしさ”があるでしょうか。青年期までのコンプレックスの反動が彼を”新しい自分”に変えてしまった。もちろん先へ進むことは悪いことではありません。しかし、そこにあるべき”過去への対峙”がシャロンには欠けていた。
同時に彼は(青年期になんの知らせもなくフェードアウトしてしまった)フアンと同じ、売人という先の見えない職業を辿っている。自分のことで精一杯な親の元生まれた子どもはその周りの世界を十分に知ることができない。そして子供は自分らしさを見出せず、親と同様の行き当たりばったりな生活となってしまう。
このような一種の分断、"精神的な貧困の固定化"というものもこの映画には内包されている。全てが決まってしまった大人になってようやく母親はそのことに気づき、シャロンに懺悔する。その罪を背負うことを涙ながらに語られてはシャロンもこれ以上責められない。
結果でしか問題を認識できない人間の愚かさ、それに対する赦し。この感情の激しい動きを誰かにぶつけるでもなく、ただ静かに描写する。だからこの問題のありのままが心に染み入ってきて、考えさせられるのでしょう。

 アダルトチルドレン(家庭環境などの問題から日常生活に支障をきたす人々)の治療に関する考え方として、”自分のなかの「子どもの自分」に呼びかける”というものがあるといいます。トラウマを抱えた子ども時代を振り返り、その原因を解決することが治療のきっかけになる、というもの。
かつての家庭の問題を受け入れたのち、ケヴィンと再会したシャロンはいま一度想いを伝えます。もうひとつ、性の問題について、彼は過去に対峙するのです。お互い環境は変わってしまったけれど、今だけは彼を、彼のなかの幼いシャロンを救う”ムーンライト”を-。
ユウ

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