「身勝手な親によって機能不全に陥った家族の悲喜劇」
と聞けば、多くの人がウェス・アンダーソンやノア・バームバックの作品を思い出すだろう。
とりわけ本作と『ロイヤル・テネンバウムズ』との近似性はよく指摘されていて、実際に原作者も「お気に入りの映画だ」と公言している。
「家族や周囲の人物を不幸にしてでも、自分が定めた道にひたすら突き進む、修羅の道を選んだ人物」
は物語で何度も描かれてきた。
『ファウスト』のファウスト博士、
『風立ちぬ』の堀越二郎、
『オール・ザット・ジャズ』のロイ・シャイダー、
『セッション』のマイルズ・テラー。
彼らは皆、芸術や創作という ”メフィストフェレス” に魂を売り渡した者達。
ファング家の中心人物である父ケイレブもまた、その典型の一人である。
これら作品の多くが「悪魔に魂を売った人物」を中心に描いた物語であるのに対し、本作は「魂を売った人物によって人生を狂わされた人物」が描かれている点が特徴だ。
くすぶった人生を送る子供たちの哀愁を強調したコメディと言えば『マイ・ライフ、マイ・ファミリー』や、アレクサンダー・ペインの『ネブラスカ』も忘れがたい。
「親の影響や支配から逃れられる事はできない」と半ば諦めかけている弟バクスターに対し、アニーは積極的に親にあらがおうとする。
アニーは女優となった現在でも、「他人が押し着せようとする役回りを受けざるを得ない」状況にある。それが哀しい。彼女はまだ、自分で自分の人生を歩き出せていない。
彼女のパンクスピリットは、自身が少女時代に作った楽曲「KAP(Kill All Parents)」を聴けばすぐに分かる。
「親を殺せ!親を殺せ!」
「親を殺せば生きられる!」
剣呑この上ない内容だが、本作の主題が端的に言い表された重要な歌詞だ。
ここでいう「親」とは、血縁上の親だけでない。
一方的に刷り込まれてきた価値観、受けてきた教育、背負わされた役割。
自分の意思とは関係なく、自分の心の中に堆積してきた要素すべてを、乗り越えるべき「親」として表現している。
そう考えるのが妥当だろう。
特に年端もいかない子供の場合、親の価値観や言動の影響を「理性的な思考」というフィルターなしで受け取らざるを得ない。
その上、幼少の頃に積み重ねられたそれらの影響は、個人のアイデンティティの軸となりやすく、大人になったからと言って簡単に抜け出せる代物ではない。
アニーとバクスターを支配する現実は、彼らが自覚する以上に過酷だ。
原作者ケヴィン・ウィルソンがこの作品を作った背景にはどんな事情があったのだろう?
ウィルソンにとって、初めての子育ては大変な経験だった。
当時の彼はいつもこんな考えに頭を悩ませていたという。
「子供時代にどう扱われるかで人生が決まる」
「自分のどんな言動が、どんな影響を息子に及ぼすのか、見当もつかない」
「自分の不手際で息子が不幸になったらどうしよう」
「自分はこの子の父親としてふさわしくないのではないか」
父親としての責任感が強いウィルソンは、戒めも込め、ファング家の父ケイレブを反面教師として描いたのだろう。
小さな頃から娘と息子に対して「自分の作品の小道具」という認識しかなかったケイレブは、「こうはなるまい」というウィルソンの思いが詰まった人物に他ならない。
一方でウィルソンは、最後まで頑固一徹で子供の要求に応じないケイレブの姿を描き切ることで「他人を変えようとしても無駄だ」という諦めも同時に提示している。
しかし、その現実を突きつけられた上で、アニーとバクスターは親や環境の影響という宿命から脱却して、
「自分の意思で自分の人生を作ろう」
と決意するのだ。
ここにはウィルソンの、我が子への願いが託されている。
『ファング一家の奇想天外な秘密』という軽い印象を与える邦題が作品のイメージを損なっているが、紛れもなく『ブレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』などと同じ系譜に属する一級品の人間賛歌だ。