KEKEKE

A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリーのKEKEKEのレビュー・感想・評価

5.0
- とてもいいものをみた
- 観始めてすぐ、オープニング(ルーニーマーラがでかい家具を軒先に捨てに行くまで)のバックで流れている音楽に違和感を感じた
- それは正直に言うと映画をこのまま見続けることが不安になるほどの違和感、もはや不信感
- でも終わる頃にはその判断が早計であったと反省していた

- その違和感とは、流れている映像に期待するものに対して音楽が壮大すぎるというか、映像と音のタイムラインがズレてしまっているようなかんじ
- 突拍子もない訳ではないのだけど日常風景の上では過剰で、カメラに写る対象物以上の何かを伝えようとしているかんじ
- その後にくる死のシーンの静けさを強調するためなのか?とも思ったけどそれだけでは説明のつかないもやもやした何かがあった

- 鑑賞後振り返るとその過剰さは、空間を貫くもう一つの視点の分の余剰、つまり2人がそこにいたとき同時に既にいた"それ"分の余剰の表現だったと解釈できる
- "それ"はカメラには写っていない、この映画を見終わってもう一度オープニングに帰ってきたとき初めて顕になる存在
- 2人にとっては何気ない日常でも、その空間に別の視点を追加したとき風景は違って見えることを、音楽が予言していたのだ

- このシーンはなんなら無音でも成り立つし、ゴーストの物語であることを題目でバラしているのだから、ホラー的な表現で不安を掻き立てたりミスリードで惹きつけることも可能なところを、"もう一度帰ってきた人のための音楽"にしてしまうところがすごい
- しかもその構図(2回目に鑑賞する私たちと作品の構図)はそのまま終盤のCの立場と重なるようになっている
- すごく実験的な取り組みだと感じるが、実際に1度目に見たオープニングでは過剰に感じた音楽も、2度目の鑑賞ではちゃんと妥当なものだと受け止められるようになっているしまんまとって感じだ
- ある意味での視点のマジック

- この作品は、物質的なものに対して横に流れる時間的な制約を超え、誰かと過ごした記憶や空間を縦に貫く視点を得たときに初めて、真のプライオリティが見えてくるのだと伝える

- だからCは死後、Mを追いかけるのではなく手紙に執着するのだ
- Cのゴーストが同じ土地に居座り続けたのは、彼が死してなお物質への執着に囚われていた訳では勿論なく、彼女と過ごした思い出という記憶に囚われていたから
- 肉体的な制約から解放され、時間を縦に貫く視点で自分を客観視したときに初めて見える、人間とはどういう動物かという本質的な問いに対峙させてくれる作品

- 採用したスタンダードサイズかつ四隅を切り取った画面は、その風景が何らかの視点であることを強調する役割を果たしていた
- アピチャッポンが映像作品を「別次元から投げかけられたひとつの焦点」として表現するように、ロウリーもまた、線形的に流れる映画的時間に縦の軸を追加することで見える新たな視点を詩的に表現した

- 冒頭の、目覚めた時にいつも扉が閉まる気配がする(Whatever hour you woke there was a door shutting.)という一文はヴァージニア・ウルフという女性作家の小説の書き出しだそうだが、この詩がとても美しく、さらに作品に深みを与える重要なエッセンスになっていると感じた

- Cは病院の壁に現れた"EXIT"の選択肢を無視してこの時間軸に残る選択をしたわけだが、もし自分が死んで残るか出るかの選択を迫られたとき、その判断の根拠となるものは一体なんだろうか
- 可愛らしく哲学的な、素敵な作品だった
KEKEKE

KEKEKE