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羅生門のmのレビュー・感想・評価

羅生門(1950年製作の映画)
5.0
これがつまらないのだとしたら、世界への信を失いそうになるな

正気の沙汰じゃない、こんなことがあり得てしまうんだと衝撃とも言い表したくないほどの奇跡だ 世界への信を一身に背負った映画であり、冗長なんてものはこの映画に一切ない。このことをまさにこの映画のようにどれだけ真実味を持って伝えられるか、また追記する。

メモ
◯木漏れ日を見上げた実景ショット
全ての実景を撮ってきた作家に五万回見せなければならない。木漏れ日の光の揺れ動きを一身に浴びた人物の歩く動きが続けてモンタージュされるとき、作品世界の持続をありありと共鳴させられる瞬間。こういうことなんだよ説話論的な持続に主題論的(というより根本的な!!)断続が入るというのは。
◯人物なんてものはない
人物造形(キャラクター)なんてものはない、といい切る安直さを超えて、人物造形が為された先に人物造形なんてものはないのだという脱構造が完成する。この人間の眼差し方は尋常じゃなく、自分はこう在れるんだろうかと鑑賞中に歯軋りが止まないほど。羅生門下の3人によって語られる、尋問前(観客へも)の3人によって語られる、あの藪の中での出来事。このマトリョーシカ的構造の中で、人々の視線や思惑、記憶、感情が交錯し、その思念の網目がいつの間にか体系を成して、この作品や世界の全貌をあらわにする。
◯極めて現象的に語ること、それさえあればということの重要さ
ドキュメンタリーにフィクションは勝てるか?という問い。幾度もなされてきた切実な不安であり、しかしながらこの作品によってそれは一刀両断!人を描くことの幅は計り知れずまだ絶望するには早い。何人の語り(フィクション)は嘘であるにせよ、"嘘から出た真"とでも言えようか、その実態の外側をなぞっていく不安な線たちによって確実に掴めていく不可思議な男と女と多襄丸の実態。(そして羅生門下の3人、私たちのことでさえも。)そして、始終を見ていた第三者である目撃者によって、まるで嘘かのような真が"語られる"とき、先述した私たち自身に還ってくる事実が浮かび上がってくる。この入れ子構造はとんでもない、途中に入る盗人が目撃者を顔に光の当たる左から闇に入る右からと追い立てるショットではベルイマンこれ泣いちゃうんじゃないかみたいなことを思って、女が泣くのをやめ狂い笑いながら「お前らは男ではない!」と叱責したとき、映像の魔術師みたいなことを唄われてる奴ら全員ハンカチ噛みちぎるんじゃないかと思った。実際私は腹が立って仕方なかった

◯世界への信
人間が恐ろしすぎるという坊主の観客へ寄り添った怯え。その坊主の手に抱かれる赤子を受け取って半壊の羅生門を背に降りていく男のショットはまさに世界への儚く切実な信だとしか言いようがない。半壊した追い剥ぎの現場である羅生門はまさに人間の強欲、罪そのものの化身であり(というより人への信)、それを旅立とうとしながらも、同時にその羅生門の屈強な面構えが畏怖と憧憬を覚えさせる。
この話が羅生門と銘打たれている訳はこんなにも確固たるものなのに、意味がないとか何を言ってるんだ、全く持って恐ろしい、コメント欄を見たときの方が恐ろしすぎた。なんなんだ
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