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冬の旅のiのネタバレレビュー・内容・結末

冬の旅(1985年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

『冬の旅』は、南仏の葡萄畑の片隅で若い女性の死体が発見されるシークエンスから幕を開ける。地元の警察の調査によって、それが自然死であると断定されるところまで映画は外面的な描写を中心に進んでいくが、そこに監督アニエス・ヴァルダ自身による以下のナレーションが挿入される。

「引き取り手は誰もおらず、遺体は壕から集団墓地に移された。この自然死による死は何の痕跡も残さなかった。彼女を幼い頃から知る人で、彼女を覚えている人は誰かいるかと私は自問したが、彼女が最近出会った人々はまだ彼女のことを覚えていた。この証言によって、私は彼女の最後の冬の最後の数週間を語れることになった。彼女は彼らに強い印象を与えた。彼らは彼女の死を知ることなしに語った。彼女の死を伝えることも、彼女がモナ・ベルジュロンという名前であったことを伝えることも、どちらも必要がないように思われた。私自身、彼女のことをあまり知らない。けれども、彼女は海からやってきたように思われる」

モナの最後の日々を語るのは、彼女が旅先で出会った人々である。(一方で、モナ自身の心情や彼女が何ものにも縛られない自由を求めて旅に出るまでの背景はほとんど語られない)。彼らの証言から明らかになるのは、男たちはモナを性的な対象として見る快楽を享受し、女たちは彼女に自身の欲望や期待を投影していたということだ。モナが見られる客体であることを拒絶し、それらのまなざしから逃れようとする姿勢は、本作で反復される13のトラッキング・ショットから彼女が頻繁にフレーム・アウトすることにより示される。裏を返せば、ヴァルダは決してフレームの中央にモナを固定しようとはしない。理想上の自由や現実への敗北といった意味を押し付けることなく、彼女がただそこに生きていたという痕跡を逃すまいとするヴァルダのモナに対するまなざしは、冷徹かつ真摯なものである。

モナがさすらう様子を呈示するシークエンスと、モナと出会った人々がカメラを見つめて彼女について語るシークエンスとがあるように、本作では作為的にフィクショナルな要素とドキュメンタルな要素とが組み合わされている。ヴァルダは脚本の執筆前に舞台となった南仏の地域で念入りな下準備をし、現地の人々のもとに足を運んで、彼らの生活についてリサーチを行った。そして、自分自身の日常生活や仕事を演じさせるかたちで現地の人々を出演させている。その狙いは、モナという現実では不可視の、放浪する匿名の人物が実際に存在したことを強調することにある。彼女を観察している人々の視線は真実であることから、ドキュメンタリー・パートによって映画に客観性が付与され、虚構の人物であるモナが我々にとってより身近となる。

本作の根底には、過ぎてゆく時間や感情、死というものを正確に汲み取り、表現したいという欲求がある。元学生運動家の山羊飼いの夫婦は、モナに対して「君は完全な自由を選んだが、完全な孤独を手に入れた」と言う。それでもモナは旅を選んだ。路上には日常的な暴力があり、飢えと渇き、恐怖、そして寒さがある。彼女はそれを生き凌ぎ、何が起ころうと、誰と出会おうと意に介さなかった。ひとり孤独な死を迎えたモナの姿は、私たちの胸を打つ。ヴァルダにとって、自由を勝ち取ること自体は重要でない。集団による共闘で自由を勝ち取ることが重要なのだ。
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