Foufou

コロンバスのFoufouのレビュー・感想・評価

コロンバス(2017年製作の映画)
4.0
監督のコゴナダは韓国系アメリカ人で、小津安二郎の共同脚本執筆者で知られる野田高悟からその名を取っており、実名や出自等は明かされていない。

本作が長編第1作だが、以前からVideo essay と呼ばれるものを多数制作しており、例えば《Passageways》というタイトルで小津を論じるといった具合である。その他ブレッソン(Hands of Blesson)やヒッチコック(Eyes of Hitchcock)、新しいところではウェス・アンダーソン(From Above)やタランティーノ(From Below)の名前が見える。日本人については、小津のほかに是枝裕和(The World According to Koreeda Hirokazu)について論じている。なお、論ずるとは言い条、その作家の作品のコラージュによって作品自体に語らせる手法を取っており、10分前後でまとめられたそれはドキュメンタリーというより、文字通りの visual essay という独立した作品の体を成している。公式サイトを含め、Kogonada をドキュメンタリー制作者のように紹介してしまう記事の書き手には、せめて原典にあたるだけの誠実さ(YouTubeで視聴可能)を求めたい。

かなりハイブラウな作り手と想像されるわけだが、今作もまた想像に違わず、「モダニズム建築のメッカであるコロンバス」を舞台に「小津に捧げるオマージュ」として撮られたものであればこそ、知的でstatic な映像作品に仕上がっている。では理の勝った映画かと言われれば、これが意外にもエモーショナルで、心揺さぶられる場面が一つや二つではない。

まず、キャスティングが見事に作品世界にはまっている。今作はコロンバスのモダニズム建築を堪能する映画である以上に、ヘイリー・ルー・リチャードソンに魅せられていく映画でもあるのだ。特段スタイルがいいわけでもなく、どこかパグを思わせるような平坦な丸顔で、歩く時もそこはかとなくガニ股なのが、瑕疵であるどころか愛着の対象となるのは、もちろん監督の力量であるけれど、それ以上に、この女優のやや低い声、人の話を座って聞くときの顔の傾け方、そしてちょっと諦念の混じるような微笑みとから醸成される愛おしさゆえである。ナイト・シャマランの『スピリット』では拐われた女の子の一人だったというが、印象に残っていない。

インディアナ州コロンバスという土地についてはまったくの門外漢。アメリカの建築家といえばフランク・ロイド・ライトが浮かぶばかりで、この人の作品がモダニズム建築にカテゴライズされるのかどうかもわからない。ここは敢えて門外漢のまま、映画からの知識だけで汲み取れば、まずはヘイリー・ルー・リチャードソン演じるケイシーの住む家屋の湿地帯特有の荒れ具合と、その界隈にヒスパニック系の子供たちが走り回っているのから察するに、コロンバスとは町興しの施策の一つとして新進気鋭の建築家の建築物を誘致して成った観光都市であり、元は貧しい田舎町であることがうかがわれる。それを裏付けるように町に覚醒剤が横行していることが言及され、またケイシーのアルバイト先の図書館でばったり出くわした高校の時分の学友がアムステルダムに留学する旨を告げ、ケイシーが町に残るつもりであるのを聞き咎めて「冗談でしょ?」と眉根をひそめるのでもある。

町に残り、薬物中毒から立ち直ろうとしている母親と生涯暮らすことを決意しながら、屈託するのでもある19歳、ないしは20歳の娘。かたや韓国人のジンは、高名な建築学者の父親が講演先のコロンバスで倒れ、それを見舞うため韓国からこの地にやってきていて、由緒ありげなホテルに滞在している。父親の回復を待つのか、それとも死を待つのか。学問に没頭し家庭を顧みなかった父親への愛憎半ばする感情。そして二人は出会うのだ。

コロンバスの建築物について、観光ガイドのする説明を一言一句違わずに記憶し、この建物が私の二番目のお気に入り、これが三番目のお気に入り…と、ガタの来ているホンダの80年代シビックを駆ってジンに案内するようになるケイシー。「君はなぜこの建物が好きなんだ」「それはだって、壁一面をガラスにした銀行といえばこれがアメリカで最初で…」「まさか、そんなことで君はこの建物が好きになったんじゃあるまい。君がなぜ感動したのか、それを知りたい」すると、しばらくためらったあとで、訥々と語りだすケイシー、やがて表情に明るさが差して、身振り手振りが加わって…しかしこのときの二人の会話は建物の内部からガラス越しに撮られ、音声はまったく伝わらず、二人の打ち解けた表情ばかりが静寂の中で展開する。

いわゆる小津ショットが建物の内外で反復されるが、技術の性質上、煩いとは言わないまでも、もっと禁欲的であってもよかったのでは、と思わないでもない。いや、禁欲的であろうとする手つきが見えるだけ、ややエモーショナルのほうへ振れた、しかしそれはテーマの性質上致し方ないとも思えるのだ。いや、やはりそこは日米の文化の違いに尽きるのかもしれない。もしくは時代の違い、階級の違い。

カメラワークを極限まで抑えた「小津ショット」もさることながら、小津映画と今作のプロットの類縁性と決定的な相違について論じてみるのも一興だろう。

いずれにせよ、小津を模倣することがパロディとしての滑稽さを纏うことにもなりかねない危うさを周到に回避し、静の中に動を丁寧に織り込んで、小津の文法とハリウッドの文法の剥離を免れた作り手の知的な挑戦を、小生は肯定的に受けとめております。
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